急ぎの用でないなら、後にしてもらおう。

〇〇が記憶を失くしたらしい。
胡蝶の話によれば、随分と高い場所から転落しその時に脳へ衝撃が行ってしまった事が原因だとか。

その噂は瞬く間に隊の中に広まった。
今の〇〇は前以上に他人を疑わない。
あちらが正しい道だと教えられれば、疑うより先に頭を下げてそちらに向かうような、無垢な人間になってしまった。


そんな〇〇に不貞を働こうとする輩が全く居ないはずもなく、今も現に〇〇はどこかへ連れて行かれそうになっていた。
脱兎の如く逃げ去って行った隊士には後で釘を刺すとして……。


(ありがとうございました、冨岡さん)

その呼び方にほんの少しだけ、胸の奥が痛む。
失くした事を悔い、嘆いたところでこいつの記憶は戻ってこない。ならば前に進む他、道はない。

気にするな、と返して背を向ける。
頭で分かっていても中々理解は追い付かないものだ、と溜息をつく。


(溜息をついていたら、幸せが逃げてしまいますよ?)

今の、言葉は……。

謝罪を述べながら縮み上がりきった〇〇に首を振る。
前に溜息を吐いているのを見た〇〇が苦笑いながら、同じ言葉を掛けてきた。

────完全に失ったわけでは、ない。


冨岡さんは口数が少ない人だ。
今だって私に何か言いかけて閉口してしまうし、感情も顔にあまり出ない。
だけど今だって、今までだって私を……あれ?今変な事を考えた気がするなぁ。
まっさら世界