彼女は今日も、図書館の窓からグラウンドを見つめていた。
「どないしてん白石」
「ん? 別に何もないけど」
「何もない言うても、ぼーっとしとったやないか」
好きな奴でもおったんか? そんな声と共に右肩に掛かる重み、謙也の肘。笑いながら払えば、振り返った拍子に見慣れたコートが視界を占める。仄かに湿度が増した気がするのは時期のせいか、己から滲んだ汗のせいか。
右肩の分は確実に謙也のせいであるが。
「ウェアから塩取れそうやわ」
言って、リストバンドを確かめていた謙也と笑い合う。恐らく互いに同じ事を考えていた空気だ。
ひとしきり笑った後、金髪越しにじっとりとした緑色の視線を頂いている事に気付いて思わず首を竦めた。こら来年も安泰やな。
さて、と。
「休憩しまいや! ペア組んでラリー練入れー!」
声を張れば元気な返事が返ってくる。そのうちの一つがとびきり元気なのも、別の一つが飛び抜けて緩いのもいつものこと。
ふと浮かんだ、「いつまで」の言葉を吹き撫でるような、どこか冷えた風が前髪を揺らす。これに塩素の香りが混じり出すのはいつ頃だったろうか。見えもしない風の軌跡を辿るように顔を上げれば、窓辺にあったはずの彼女の影は消えていた。
顔の見えない距離ではなかった、知らない顔ではなかった。同学年であるし、そもそもクラスメイトだ。
長めの前髪は違反を知らない黒色で、古風な丸眼鏡の奥が見えたことはあるかどうか。これでお下げならば、絵に描いたような“優等生”だっただろうと思うのは偏見であろうか。
そういえば、そもそも声を聞いたことがあるかどうかも怪しいかった。
つまり、その程度しか知らないのだ。交友がない。
この学校では特別珍しいものの、良く良く見れば一学年に必ず数人はいる、ネタに走らないタイプ。かといってそれが不評であるとは限らない。前例が後輩にいた。
日誌が綺麗、花瓶の面倒を良く見ている、気が付くと提出物を整えている、学級文庫に栞が添えてある、黒板消しをこまめにクリーナーに掛けている、エトセトラエトセトラ……
細かすぎてキリがないということは、それだけ細部に目が行く人である。俺はそう思う。
勿論、嫌な言葉がないわけではない。どちらかというと、彼女自体を認識していない人の方が多いのが何とも。
同じく絶対ネタに走らない後輩も不評であるとは限らない、等と言いはしたがあっちはあっちで悪目立ちするタイプである。
それがモテに繋がるのはなんでやと叫んだスピードスターを知っているが、別にモテても良いことばかりではないし。
話が逸れた。
何となく二つの影を並べてみると、どこか似ている気がする。カラーリングやろか。小さく首を傾げながら戸を開き、現実に歩み戻る。
「あ」
小さく上がった声は正面より左斜め、図書室のカウンターから。
見れば、驚いた顔をした財前がしかめっつらになろうとしているところで。噂をすればなんとやら。
「今日当番やったんか?」
「私語厳禁スよ」
「堪忍」
「……オフの日、週に一回ですし」
なるほど。発する前に飲み込んだ言葉は届いたらしい、随分抑えられた「何の用スか」の言葉に繋がりを感じながら、抱えていたものを軽く広げた。
「壁新聞。あともうちょいやってんけど、俺が中々顔出せんくてな」
「そういや先生がそないなことを……あ、引き留めてすんません」
「いえいえ」
四天宝寺の傾向として、ネタ作りが白熱して騒がしさが爆発することがある。なのでそれを防ぐため、図書室にはヒートアップしそうな持ち込み物がないかをチェックするのが暗黙の了承になっていた。
なお、この件に関してのみ笑いの免罪符は存在していない。
そういや、財前のチェックって特別厳しいとかいう噂あったな。何の気なしに振り返れば、ついさっき頭に浮かべた組み合わせが言葉を交わしているのが見えて。
へぇ、知り合いやったんか。へぇ。
翌日も、彼女は同じ場所でグラウンドを見下ろしていた。やけに日差しの強い日だった。
「梅雨どこ行ったんスか……」
「雨が降ったら降ったで文句言うやん財前」
「当たり前でしょう」
彼女が図書委員であると確認できたのは、あの後教室に寄ってからだった。皆で決めた筈の、委員だったのに俺は、確認するまで忘れていた。認識していなかった。
「暑いのは夏やからしゃーないとして、何で年々最高気温上がっとるんスか」
「俺に言われてもなぁ」
「こういう時くらいやないすか、謙也さんのネタが役に立つんは」
昨日ようやく聞いた筈の声も覚えていない。これも認識していなかっただけだ。思い返せば、矢鱈と満遍なく当てたがる先生がいた。彼女も当たっていた、はずだ。
「誰のネタが寒いっちゅー話やねん!」
「そないなこと言うてませんよ、役に立つとだけ」
「意味一緒やんか!!」
日差しが、暑い。今日の最高気温は幾らだったか。暑い。
これ以上立ち止まっていたらどうにかなりそうだ。
「はいはい。謙也、そこまでにしとき」
「何で俺を止めんねん!」
「後輩相手にヒートアップしとったら、そら止めるやろ」
暑い、暑い。髪が焼ける音がしそうだ。
もう一度見上げた窓辺の彼女、メガネの角度が少し変わった。そっちは涼しいんかな、図書室やもんな。
返事のイメージができない。
思い付く事と言えば、彼女の視界の中心には黒色があるんやろなということくらい。
あぁ、クソ。誰だ、白は黒より熱くならないっていったのは。頭があつい。あつくていたい。
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