名前:レーヴ

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 静謐な空気の積層を切り裂くように、一条の光に似たベルの音が響いた。その清冽な音色によって、深く沈んでいた意識の表層が緩やかに浮上する。物語の海を泳いでいた精神が、現身の肉体へと接合される瞬間、女は自身がいかに深く集中していたかを悟った。
 凝り固まった両肩の重みを解すように、指先で交互にもみ込む。首をぐるりと回せば、骨が小さく軋む音が鼓膜に届いた。天を仰ぐようにぐっと腕を伸ばし、肺の隅々まで書店の古びた紙の匂いを吸い込む。革の装丁が手に馴染む一冊の本を、惜別を込めて閉じた。挟み込まれた栞は、まだ物語の半ばにも達していない。
 もし、この場所が公共の図書館のように貸出を許しているならば、いつでも好きなときにこの芳醇な孤独に浸れるだろうに。そう叶わぬ空想を抱きながら、壁に掛けられた大振りな時計を見上げる。無機質な秒針は、女がこの聖域に足を踏み入れてから正確に三時間が経過したことを告げ、午前十一時の定位置を指していた。
 不意に、喉が張り付くような渇きが女を襲い、小さく咳き込んだ。そういえば、先ほどお茶を出してくれると言っていたはずだ。女はソファの軋みを背に受けながら、円を描くように視線を巡らせた。しかし、あの目を引く金髪の長身の姿はどこにも見当たらない。だがこの静寂のどこかにはいるはずだ。女は水分を求めて、主を探しに席を立った。
 歩を進めるごとに、視界には整然と並ぶ書架が飛び込んでくる。そこにあるのは、現代の軽薄な流行に迎合したような、タイトルを見ただけで中身を透かして見せようとする安直な代物ではない。平易な語彙で飾られたライトノベルの類は一冊たりとも存在せず、背表紙の一つ一つが、読む者に相応の覚悟と知性を要求するような重厚な佇まいを見せている。
 本当に色んな本があるな、と半ば感心しながら迷路のような棚の間を抜けていくと、遮蔽物の向こう側から低い話し声が漏れ聞こえてきた。角からそっと顔を覗かせると、そこには舞台の幕間のような光景が広がっていた。
 カウンターの椅子に腰かける男と、それと相対するように立つ長髪の男。その横顔のどこか浮世離れした美しさに女は見覚えがあるような感覚に陥った。どこで目にしたのか、あるいは誰に似ているのか。記憶の断片を繋ぎ合わせようと目を凝らす間にも、男たちの会話は淀みなく、親密なリズムを刻んでいた。
「おや、レーヴくん。あなたが本屋に来るなんて珍しい」
 店主の、あの穏やかでいてどこか理知的な響きを持つ声が空間を震わせる。
「エリアスの使いだ。これ、返しといてくれってさ」
 レーヴと呼ばれた長髪の男は、ぶっきらぼうに紙袋を手渡した。店主はそれを恭しく受け取ると、中を覗き込み、三冊の重みのある本を取り出してカウンターに並べた。最後に、何かを確かめるように袋の底へ視線を落とした後、全てを察したように溜息混じりの笑みを零す。
「途中で飽きたんですね。彼、全部読んだものは感想を書いた手紙を添えてくれるので」
 店主の脳裏には、数多いる友人知人の中でも特に色濃い影を落とす、ある男の顔が思い浮かんでいた。垂れ目で、常に眠たげな気だるさを纏っているあの男。その外見だけを見れば、厳格な活字の世界とは無縁のように見える。だが、その実物好きな友人から届く感想を心待ちにしていた。
 しかし、使いを頼まれた長髪の男はあからさまに眉を寄せ、奇妙なものを見るような顔で舌を出した。
「あいつがそんな面倒なことするかよ」
「エリアスさんのことをなんだと思ってるんですか」
「陰キャ」
「殴られますよ」
「あんなへなちょこのパンチ痛くもねえ」
 それは、長年の歳月だけが育むことのできる、気安い間柄にのみ許された軽妙な応酬だった。その完成された空気感を前に、女は出て行くタイミングを完全に見失い、棚の影で立ち尽くした。少し間を置こうか。そんな逡巡と共に、気取られぬよう足を後ろに引いた瞬間だった。
 不意に、長髪の男の鋭い視線が射抜くようにこちらを捉えた。店主の持つ美しさとはまた質の異なる、研ぎ澄まされたナイフのような美貌に、女は思わずたじろいだ。ここで目を逸らすのは、かえって無作法な気がしてじっと見つめ返す。
 すると、長髪の男の異変に気づいた店主もまたその先に目を向け、背後に佇む女の存在を認めた。
「どうしました?」
 春の陽光のような優しい声に促され、女は磁石に引かれるように歩み出た。彼女が近づくと、長髪の男はわずかに道を譲るように後ずさった。その際、彼から発せられる値踏みするような圧力が肌を刺した。この男も、驚くほど背が高い。女はおずおずと、渇いた喉を震わせて話しかけた。
「喉が渇いたので紅茶を……」
「かしこまりました。すこしお待ちいただけますか?」
 店主は柔和な表情で頷き、カウンターの中で立ち上がる。それと同時に、役目を終えた長髪の男は踵を返し、片手を軽く上げて短く告げた。
「確かに返したからな」
「待ってください、レーヴくん」店主は手慣れた動作でカウンターの下を探り、用意していた紙袋を差し出した。「これを」
「……なんだよ、知ってたんじゃねえか」
「朝のうちにエリアスさんから連絡をもらっていたので」
 袋から漏れ出る、濃厚なバターの香りが空間に溶け出す。それを嗅いだ瞬間、先ほどまでの刺々しさを霧散させた長髪の男は少年のように顔を綻ばせた。そしてあろうことか、彼は店主の頬へ、親愛の情を込めたキスを送ったのである。
 女は、見てはいけない神聖な儀式を覗き見てしまったような衝撃に襲われ、咄嗟に両手で顔を覆って後ろを向いた。しかし、無慈悲にも再びちゅ、という湿り気を帯びたリップ音が静かな店内に響き渡る。
 東洋の血を感じさせないその風貌から、彼らが日本人ではないことは明白だった。ならば、これは彼らの文化におけるごく自然な挨拶の一つに過ぎないのかもしれない。だとしても、眼前で繰り広げられた同性同士の濃厚な触れ合いは、女の日常的な倫理観を大きく揺さぶるには十分すぎるものだった。
「ありがとよ」
 足音も立てず、レーヴは風のように去って行った。一度見れば決して忘れることのできない、鮮烈な極彩色のような存在感を放ちながら、その身に纏う性質は深い霧のような静寂に包まれている。そして何より不思議だったのは、去り際の彼の背中に、目の前の穏やかな店主と通底する、ある種の超越的な気配を感じたことだった。
「騒がしくてすみません。今、淹れますからお席でお待ちください」
 申し訳なさそうに頭を下げた店主が、簡易キッチンのある奥へと姿を消す。女は促されるまま席へと戻り、先ほどまで熱中していた本を手に取った。しかし、一度乱された意識はもはや整然とした活字の海に戻ることを拒んでいる。彼女は溜息を吐いて本を置き、無造作にスマートフォンを取り出した。
 慣れた手つきでSNSのタイムラインを流し読みしていると、ある画像が目に留まった。
(あ、今の……!)
 先ほどの長髪の男に酷似した顔が流れていった気がして、慌てて指を動かし遡る。しかし、情報は濁流のように過ぎ去り、目的の残像は既にデジタルの奔流の中へと消えていた。それでも諦めきれずに画面をスクロールし続けていると、ことり、と耳に心地よい音を立てて、机の上に磁器のカップと小皿が置かれた。
 次いで、黄金色の蜂蜜を湛えたガラス製のハニーポットと、瑞々しいレモンの乗った小皿。カップからは、高貴な茶葉の香りを乗せた白く温かな湯気が立ち上り、添えられた菓子の甘やかな匂いが女の空腹を優しく刺激した。
「お待たせいたしました。お好みで、こちらの蜂蜜やレモンをお入れください。お好きでしたら、ビスケットとショートブレッドもお召し上がりください」
 店主は祈りを捧げる神官のような恭しさで、テーブルの上の配置をミリ単位で整え、深く頭を下げた。その完璧な所作に、女は胸の内に燻っていた疑問を、衝動的に口にしていた。
「さっきの人、店主さんのお友達ですか?」
「ええ」
 店主は数回瞬きを繰り返した。それは驚きというよりは、大切な宝物を思い出したときのような柔らかな予備動作だった。やがて、彼は緩やかに目を細め、この日一番の慈愛に満ちた笑顔を見せた。その表情には、単なる友情という言葉では零れ落ちてしまうほどの、純度の高い愛情が混ざり合っている。
「なんか……、意外ですね」
「よく言われます」店主の目は、益々細く、三日月のように弧を描いた。「では、ごゆっくりどうぞ」
 折り目正しく腰を曲げ、優雅な礼を捧げた後、男は凛とした背筋を伸ばしてカウンターへと戻っていく。その足取りすらも、一つの完成された芸術のように静かだった。
 女は、温かなカップを両手で包み込み、一口その液体を口に含んだ。柑橘の爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、柔らかな甘みを帯びた紅茶が、渇ききった喉と心を潤していく。
 もし、あの万華鏡のような組み合わせを再び目にすることができるのなら。この風変わりな書店の常連になってまたあの奇妙でいて美しい光景が現れるのを待つのも悪くない。
 女は、その後何度も見ることになる未来を、紅茶の湯気越しにぼんやりと思い描いていた。