男の問いかけはあまりに無機質で、事務的だった。彼にとってそれは、天気を尋ねるのと変わらない、単なる在庫確認の延長に過ぎないのだろう。
「…今日は、ちょっと」
掠れた声で拒絶するのが精一杯だった。官能、という日常の語彙から最も遠い場所にある言葉を突きつけられて、平然と頁を捲るだけの勇気も、厚顔無恥さも、女は持ち合わせていない。もし、この男がどこにでもいるような、凡庸で無害な青年であったなら。彼女はもっと早くに冗談として笑い飛ばせていたのかもしれない。
だが、眼鏡越しに覗く青い瞳、計算されたように美しい金髪、閉ざされた空間の主としての支配的な佇まい。それらすべてを直視した後では、女としての本能的な躊躇いと、美形に対する抗いがたい気後れが理屈を追い越して先に立ってしまう。
もじもじとスカートの端を指先でいじる女の動作は、この完璧に統制された古書店において、唯一の不純物のようでもあった。そんな彼女の心の揺らぎなど知る由もなく、男は薄い唇から無慈悲な一言を放つ。
「ここは僕一人で経営しているので、いついらしても居るのは僕だけです」
「そう、なんですか」とりたててすぐに読みたいわけではなかったはずなのに、一度存在を意識してしまうと喉に刺さった魚の骨のように気になってしまう。「あの、貸出って…」
「そちら初版本なので貸出はしていないんです。あなたははじめてのお客様ですし、会員登録までは考えていらっしゃらないでしょう? と、なるとこちらでお読みいただくしか」
男は芝居がかった様子もなく、遺憾の意を示すように静かに首を振った。当然の帰結だ。この世において、価値のあるものは常に羨望と悪意の標的になる。彼がこの城を引き継いでから数年の間にも、この静謐を破ろうとする窃盗未遂は何度か繰り返されてきた。その度に防犯の壁を高く、厚く築き上げてきたのだ。
見ず知らずの他者の手に渡り、通販サイトで転売されることなど論外だった。ましてや、自らが大切に守り抜いてきた紙の集積が、自分の目も手も届かない闇へと持ち去られてしまうこと。それは男にとって、自らの半身を削ぎ落とされるに等しい、屈辱的で耐え難い事態だった。
ゆえに、この店において例外は存在しない。会員登録か、あるいは保証金という名のデポジット制度。そのどちらも選ばないというのであれば、この場で男の管理下で頁を捲る以外の選択肢は残されていない。周囲からお高く留まっていると揶揄されようとも彼が貫き通してきた、譲れない信条だった。
女は考え込むように、言葉を飲み込んだ。
アンティークの柱時計が刻む、重厚で硬質なリズムだけが、密度を増した静寂の中に響き渡る。その音さえも、彼女の決断を急かす秒読みのように聞こえた。
「……………………読んでいきます」
「少々お待ちください」
たっぷりと沈黙を溜めてから放たれた女の言葉に、男は満足げな表情を見せることもなく、ただ静かな動作で立ち上がった。彼は高くそびえ立つ書棚の間へと、音もなく消えていく。棚は人の身長を優に超える高さを持っていたが、男のすらりとした長身は、向こう側にわずかにその金色の頭頂を覗かせていた。
男が今どこにいるのか、どの知識の層をなぞっているのかは、一目瞭然だった。とある一角で、彼の動きが止まる。しばらくの静止の後戻ってきたその手には、落ち着いた高級感を湛えた真紅の装丁が握られていた。それはまるで、これから暴かれる禁忌を象徴するような、鮮烈な赤だった。
「こちらです」
「ありがとうございます」
手渡されたその書物は、想像を遥かに超えるずっしりとした物理的な重みを伴っていた。女はそれを、両手で恭しく抱えた。もし、この重みを不注意で落としてしまったら。あるいは、頁を折ってその価値を汚してしまったら。一体どれほどの賠償金を突きつけられるのだろうか。そう考えただけで、背筋を鋭い悪寒が走り抜ける。
女はまるで、壊れやすい赤子を初めて抱く時のように。あるいは未知の生命体を扱うかのように、細心の注意を払ってこの本を扱おうと心に決めた。
「紅茶やちょっとしたお茶菓子の提供もしていますので、必要でしたら呼んでください」
「はい」
男は女の短い受諾を確認すると、未練を残さず再び棚の方へと背を向けた。先ほどまで行っていた書架の整理という名の、彼にとっての神聖な日常に戻るのだろう。
大きな背中が書棚の角を曲がり、完全に見えなくなったのを見届けてから、女は奥へと足を進める。そこには、磨き抜かれたダークブラウンの本革ソファが、まるで主の帰還を待っていた従者のように鎮座していた。腰を下ろすと、冷たく、けれど柔らかな革の質感が、彼女の臀部を優しく、そして逃がさないように受け止める。
鏡のようにピカピカに磨き上げられた机の上に、慎重にその本を置き表紙を開く。それは決して、初めて触れる物語ではない。かつて自室で、その本質を知らぬままに通過した言葉の羅列だ。
しかし、成人した今の自分が、この奇妙なほど美しい男の視線を感じる閉ざされた空間で、その禁忌を再び紐解くという事実。物語に入り込む瞬間特有のワクワクとした高揚感。隠しきれない背徳の香りが混じり合い、女の指先をわずかに震わせた。
―続き―