男は女の困惑を、まるで熟練の鑑定士が古書の褪せたインクを読み解くように、静かに深く見つめた。その刹那、彫刻のように硬質な彼の相貌に、わずかな亀裂が走る。薄く、けれど確かな意志を伴って刻まれた微笑。それは冬の陽光が凍てついた湖面を溶かすような、一瞬の暴力的なまでの温かみを孕んでいた。
その笑みが女の網膜を揺らし、凍り付いていた空気をわずかに緩ませる。男はその脳内に整然と構築された巨大な書架の索引を、淀みなく指先でなぞるようにして口を開いた。
「なるほど。あなたのおじい様はずいぶんと癖のある方の作品がお好きなのですね」感情を削ぎ落とした、平熱の響き。彼は淡々と事実のみを提示する。「こちらでは、32冊ほど取り扱っています」
「夜汽車と羊歯の図書室と赤錆の手紙は読んだことがあるんですよねー」
女は、記憶の深淵に沈んでいた澱を掬い上げるように、そのタイトルを喉の奥から絞り出した。それは、まだ難しい言葉の意味も知らず、ただ純粋に物語の筋を追いかけていた子供時代の記憶だった。
祖父の書斎。そこは古びた紙の匂いが呼吸を支配する、大人たちの密室。歴史という重厚な殻を被った書物や、人間の業を煮詰めたようなミステリー小説。その堅牢な知の並びの中に、ひっそりと、けれど確かにその本たちは潜んでいた。
最初は理解の範疇を超えた小難しさに顔を顰めていたはずなのに、ページを捲るたびに、得体の知れない熱量に搦め取られていったあの感覚。幼い指先が触れていたのは、単なる紙の束ではなく、背徳という名の迷宮への入り口だったのだ。
そういえば、いつの間にか書棚にはその続きの巻が用意されていた。今にして思えば、老いた祖父は孫娘が密かに知の聖域を侵し、未熟な空想に耽っていることをすべて承知の上で見守っていたのだろう。
「ラブロマンスですか。恋愛ものがお好きなのでしたら、おすすめの作家がたくさんいます」
男の言葉は、まるで迷える羊を正しい道へと導く羊飼いのように、柔らかく響く。
「あ! 氷華の指先と秘密の焔って知ってます? あれ、読んでたんですけど、おじいちゃんにまだ早いって取り上げられちゃって」
胸の奥に灯ったほのかな懐古の熱に浮かされ、女はパン、と軽やかな音を立てて手を打ち鳴らした。その瞬間、男の眼差しに微かな動揺が走る。短く切り揃えられた金髪に縁取られたその瞳が、一瞬だけ伏せられる。遮るもののない至近距離。男の端正な顔立ちが無防備に晒されているからこそ、その一瞬の空白は異様な重みを伴って彼女の意識に残った。
あれ? と思う間もなく男は再び視線を戻したが、空気に混じった微かな緊張は、消えずにそこへ留まったままだ。彼は、儀式のように眼鏡のブリッジを押し上げた。その声は、妙に低く潜められている。
「おいくつのときに読んでました?」
「十歳くらい…?」
「おじい様が止めたのも納得です」彼は深く頷き、慈悲の視線でもって彼女を射抜いた。「その作品はロシアの官能をテーマにした文学小説です。あなたが読んだのは日本語に訳されたものでしょう。僕は原語版も日本語版も読みましたが、どちらもエロティシズムに溢れるものでした」
その宣告は、女の無垢な思い出を容赦なく塗り替えた。
当時の日本において、その作品が翻訳されるという報せは、一つの社会現象として世を騒がせていた。出版とほぼ同時に発表された実写映画化。それは、書物のページに閉じ込められていた禁忌の香りを映画館という巨大な暗闇へと解き放つ、大胆な試みでもあった。
劇場のスクリーンという圧倒的な視野の中で、あまりに過激な情景は視覚的な衝撃を伴って観客を圧倒した。たとえ映画倫理機構などの規制によって露骨な描写が婉曲化されていたとしても、物語の根底に流れる剥き出しの情動は、むしろ秘められることでより一層、人々の飢えた興味を攫っていったのだ。
特に、まだ世界の本当の厚みを知らぬ若年層にとってその物語は抗いがたい魅力を放ち、後の漫画化というさらなる増幅装置によって、流行の頂点へと上り詰めていった。
その作品が官能を本質としていた以上、そこには当然のように、社会的な良俗を守るためのR十八指定という形ばかりの障壁が築かれていた。だが、そんな脆弱な境界線を律儀に守っていた未成年者がどれほど存在したというのか。
少なくとも、男はその例外ではなかった。彼は十代前半という、感性が最も研ぎ澄まされていた時期に、その深淵をすべて網羅していた。それどころか、最近も記憶のメンテナンスを兼ねて読み返したばかり。男の脳内には、その物語の退廃的な一節一節が、昨夜見た夢の残響のように淀みなく諳んじられるほど深く刻み込まれていた。
「え……」女は、その場に縫い付けられたように固まった。自らの頬が急激に熱を帯びていくのを自覚する。じわじわと確実に、皮膚の裏側を羞恥という色が侵食していく。無意味だと分かっていても、逃げ場を求めるように自らの髪を弄り、視線を泳がせた。「そ、そうなんですか」
「取り扱いがございますが、読んで行かれますか?」
―続き―