春先の陽気は、時に人をひどく無防備にする。肌にまとわりつく湿り気を帯びた風に誘われるまま、女は自らの足で境界線を越えていた。東京という巨大な歯車の一部になって数年。ようやく手に入れたマンション周辺の地図は、頭の中で完成されていたはずだった。
しかし、日常の延長線上にあるはずの景色は、いつの間にか見知らぬ筆致で塗り替えられている。気づけば周囲から人の気配は消え失せ、代わりに現れたのは、視界を圧迫するほどに高い塀の連続だった。
それは逃げ場を塞ぐ巨大な壁のようでもあり、あるいは何かを外界から峻別するための結界のようにも見える。もしそれが無機質なコンクリートの塊であったなら、彼女はもっと早くに閉塞感に耐えかねて引き返していただろう。だが、そこには呼吸があった。
塀の向こうから溢れ出す木々の深い緑。天からうっすらと降り注ぐ、濾過されたような陽射し。湿った土の匂いと、微かに混じる鉄の錆びた香りが、女の足を一歩、また一歩と奥へ進ませる。この先に何があるのか。あるいは、何もないのか。
どちらにせよ、月曜日のオフィスで語るためのちょっとした冒険譚にはなるだろう。そんなひどく世俗的な計算を盾にして、女は静謐の中を歩き続けた。どこまでも続くかに思われた緑の影の合間に、周囲の空気とは明らかに密度の異なる、一画の濃い影が落ちている。それは距離を縮めるほどに暗さを増し、現実との境界を曖昧に書き換えていった。
やがて、時の流れから取り残されたような重厚な扉が姿を現した。白く塗られた木製のドア看板には、神経質な文字で『ANTiquarian Books』と記されている。古書店だろうか。視線を落とすと、ドアノブの傍らには『OPEN』の札が、まるで最初からそこにあることが世界の決まり事であるかのように静かに掛かっていた。
女がドアノブを握り、ゆっくりと力を込めると、頭上で微かなベルの音が鳴った。それは音というよりは、空気が震える予兆のような響きだった。
足を踏み入れた瞬間に鼻腔を満たしたのは、膨大な時間の堆積が放つ、古い紙の乾いた匂い。そして、それに重なるように漂う濃厚な紅茶の香りだ。拒絶感はなかった。むしろ、都会の騒音に曝され続けた神経が、その濃密な静寂の中に安らぎを見出し、ゆっくりと弛緩していくのを感じた。
室内は、演出された仄暗さに満ちていた。天井からの暖色系の照明が影を長く伸ばす。棚の一段一段には、さらに繊細な光を放つLEDが仕込まれている。並べられた背表紙の威厳に、女は場違いな場所に迷い込んだ子供のような戦慄を覚えた。
その緊張感の先に、一人の男が立っていた。長身。驚くほど高く聳えるシルエット。低く切り揃えられた金髪が、彼がわずかに身じろぎするたびに、絹のような光沢を伴って揺れる。その完成された後ろ姿に圧倒され、声をかけるタイミングすら失って凝視した。すると、男は計ったような滑らかさでこちらを振り返った。
前髪は短く整えられ、彫刻のような顔の輪郭が剥き出しになっている。何より目を惹いたのは、そのストイックな風貌には不釣り合いな、二房だけ垂れ下がった鮮烈な赤のメッシュだった。なぜ、そこだけが炎のように赤いのか。
女がその理由を探る暇もなく、縁なしの丸眼鏡の奥にある鋭い青眼と視線がぶつかった。深く、底の見えない湖の色。その瞳が、侵入者である彼女を捉えて静かに瞬いた。
男は細い指先で眼鏡のテンプルに触れ、静かに唇を開く。
「新しいご客人ですか。珍しい。ここに新入りが入り込むことは滅多にないんです」
声は、低くも高くもなかった。ただ、耳の奥に直接沁み通るような、不思議な透明感を持っている。大声で叫ぶ必要などない。彼の言葉はそれだけで十分に、この閉ざされた空間を支配する力を持っていた。男は動かず、ただその場に佇んだまま、女という存在を値踏みするように見つめている。
「…実は、迷子になって」
沈黙に耐えかねて絞り出した言葉は、あまりに情けなく響いた。しかし、男は表情を変えずに応じる。
「なるほど。しかし、だとしてもここまで訪れるということはあなたは運がいい」
「はぁ……」
彼女は気の抜けた生返事を返した。目的地を見失い、得体の知れない静寂に迷い込んだ自分を運がいいと評される理屈がわからない。
「見てのとおりここは本屋。と、いっても取り扱っているのは古書の類いです。ライトノベルや、漫画といったものは揃えていないのですが」
「古書、ですか。詳しくはないですけど、祖父がいくつか所有していて読んだことはあります」
古書店。壁一面を埋め尽くす書物の背表紙は、どれも長い年月を経て、角が丸まり、色は褪せている。そこには現代の消費される文学が持つ軽薄な色彩はない。くたびれた印象はあるが、同時にそれは、誰かの人生に深く食い込んできた証左でもある。
もし、本を何よりも愛した祖父がここにいたなら。彼はきっと、少年のように無垢な瞳を輝かせ、この静謐な空間に魂まで預けてしまったに違いない。女は棚に指を這わせながら、記憶の中にある祖父の横顔を思い出していた。
「―――素晴らしい。どの作家さんでしょう? 教えていただければその方の著作物を探しますよ」
男の声に促され、女は意識の奥底、埃を被った記憶のページを一枚ずつ捲った。
「えーっと、中糸瀬識路さんだったような」
ようやく手繰り寄せたその名を告げると、男はすべてを理解したかのように、深く、一度だけ頷いた。彼はそのまま無言で踵を返し、奥へと歩き出す。彼女が誘われるように後を追うと、そこにはシックなダークブラウンの机があり、彼はその上の黒いノートパソコンを操作し始めていた。
白く長い指先が、流麗な動きでキーボードの上を滑る。マウスを操る手つきには、古書というアナログな世界に身を置きながらも、現代的な冷徹さが同居していた。
ふと、男の背後に目を向けると、古めかしい洋書に紛れて一冊のテキストが置かれているのが見えた。『財務会計』――。
この浮世離れした空間で、彼は一体何を学ぼうとしているのか。その奇妙なアンバランスさに目を細めていると、ほどなくして男が画面から顔を上げた。
―続き―