名前:ギュレル

愛の言葉6個目

(⌒∇⌒)

カウベルのような軽やかな音が響き、カフェの重厚な木製の扉を押し開けると、そこには冬の過酷な寒さを一瞬で忘れさせるような別世界が広がっていた。建物に蓄えられていた暖かな空気が、凍えた頬を優しく包み込む。それは、外の鋭く突き刺さるような冷気とは対照的な、深く焙煎されたコーヒーの香ばしさが混ざり合った、抱擁のような温度だった。
案内されたのは、窓際の二人掛けの席。テーブルを挟んで朔と向かい合う形で腰を下ろすと、すぐそばの大きなガラス窓越しに、冬の夜を彩る街のネオンがぼんやりと滲んで見えた。外の世界の寒さと、店内の密やかな温かさの差が、彼女の胸の奥で小さく、けれど抗いようのない刺激を作る。
「ここって…」
色とりどりの夜景に視線を投げながら呟くと、朔の視線が自然と彼女の手元に落ちる。
「バレンタインデーのキャンペーン中なんだ。カップルでくるとホットチョコレートとチョコレートマフィンが無料ってやつ」
朔の声が、まるでビロードのように滑らかに彼女の耳に届く。その響きに触れるたび、体の中の緊張がふっと緩む。周囲の笑い声や、カップを置く音が、背景の柔らかいざわめきとして混ざり合い、彼女を守る壁のように機能していた。
「朔さんって甘いもの好きなんですか」
彼女はそっと指先を伸ばし、テーブルに置かれたカップの縁を軽く触る。微かな陶器の温かさが指先を伝わり、ほんのり心まで温めていく。
「普通じゃない? でもそこそこ食べるよ」
向かい側の席で、朔が少しだけ肩をすくめる。その仕草が何故かひどく愛らしくて、彼女はつい目を細めてしまう。けれど、彼が視線を逸らさずに真っ直ぐ自分を見つめてくると、胸の奥がじんわりと熱くなるのがはっきりと分かった。
「朔さん…」
声が小さく震えるのを自覚する。息を整えようと深く吸い込むと、濃厚なショコラの香りが鼻をくすぐり、甘やかな眩暈を誘った。
「ん?」
テーブル越しに吸い寄せられるように視線が合い、世界が不意に静止し、時間が一瞬止まったように感じる。互いの呼吸を合わせるように、心臓の鼓動が一段と速くなっていく。
「あ、あーーーーー。キスね。…キスかぁ」
店内に掲げられたキャンペーンの条件を言葉にした瞬間、頬が火を噴くように火照った。指先はまだ少し冷たいと感じるのに、胸の奥は溶け出したチョコレートのように熱く、混乱と期待が濁流となって押し寄せる。
「いや、ですか」
「俺じゃなくて、貴女ちゃんが」
「私は、いやじゃないです」
二人の間の空気が一瞬だけぴんと張り詰め、でもどこか柔らかく、心の奥で小さな笑みがこぼれた。視線を逸らさずに彼を見つめ返すと、身体の緊張と高揚が混ざり合い、テーブルの下で膝に乗せた手のひらがじんわりと汗ばむ感覚があった。
「無理しなくていいんだよ。カフェは他にもあるから」
朔の声のトーンはどこまでも穏やかで、彼女の緊張を少しでも解こうとしてくれているのが伝わる。その優しさに触れると、肩の力が自然と抜け、呼吸が少しだけ落ち着きを取り戻した。
「無理はしてません!」
思わず笑いながら答える。けれど、胸の奥でドキドキという不協和音が続き、テーブルを挟んで視線を合わせるだけで心臓が激しく跳ねるのを、隠しようもなかった。
「次のカップルさーん。キスをお願いしまーす。軽いやつで大丈夫ですよー」
店内に響き渡る明るい声に、周囲の祝福するような笑い声と、木の椅子のきしむ音が混ざる。自分の頬の熱さがこれ以上ないほど意識され、目の前に座る朔の存在感に心が揺れる。
「貴女ちゃん」
「…ん」
瞬間的な静寂。世界からすべての雑音が消え去り、視線を交わすだけで胸がいっぱいになった。窓越しのネオンの光が二人の影を揺らし、テーブルを挟んで身を乗り出した二人の、息の温かさが混ざり合う。重なった唇から、不器用で、けれど深い熱が流れ込み、彼女の意識を白く染め上げた。
しばらくして椅子に深く座り直したあと、朔が少し困ったような、申し訳なそうな表情で口を開いた。
「ごめんね、貴女ちゃん。確認不足だった」
キャンペーンの参加条件が、衆人環視の中でのキスだとは把握していなかったことへの、彼なりの誠実な謝罪。けれど、今の彼女にとっては、その不意打ちさえも愛おしく感じられていた。
「そんなに謝られると逆にショックです」
声の抑揚や、ちょっとした息遣いまでが敏感に心に届く。テーブルを隔てていても、彼の体温が伝わってくるようで、二人の間の距離感が、皮膚を焼くように意識された。
「ごめ……あれ? 貴女ちゃんは頼まないの?」
「こ、今夜焼き肉なのでお腹を空かせておこうかと!」
笑いながら答える声に、ようやく心の緊張がほどけ、肩の力も自然と抜ける。視線を正面に向けると、朔の目が楽しそうに細まっていた。
「へー、焼き肉か。いいね。なんのお肉?」
「えーー、っと、内緒って言ってました」
笑い合う声と、店内の柔らかい光が、凍えていた胸を芯から温める。外の街路樹の影が窓に揺れ、外の世界の冷たさを少しだけ思い出す。けれど、この硝子一枚の内側は、甘い香りに守られた安息の地だった。
「それはそれで楽しみだね。あ、じゃあこのホットチョコレートとマフィンは貴女ちゃんにあげる。意外と小さいし、これくらいなら平気だよね?」
「ありがとうございます」
差し出されるカップの温かさを指先で感じ、心までじんわりと満たされていく。手を伸ばすたびに、小さなドキドキが指先を通って胸に広がるのを感じた。すると、朔が自分が注文していた「いちごパフェ」にスプーンを差し込んだ。
「貴女ちゃん、アーン」
「え…」
テーブルの向こう側から差し出される一口に、一瞬だけ呼吸が止まる。心臓の音だけが耳の奥で爆音となって響き、苺の甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。
「食べたそうな顔してた」
「あ、あーーーー」
促されるままに口を大きく開け、運ばれたパフェを迎え入れる。冷たいアイスクリームと、瑞々しい苺の酸味が舌の上で溶け合う。柔らかい生クリームの甘美な感触に、思わず幸福感で目を閉じる。店内の光と香りが優しく心を包み込み、外の冬の空気の冷たさを、もう完全に忘れるほどだった。
「美味しい?」
「ここの生クリーム好きかも」
視線を合わせた瞬間、胸の奥が小さく震える。ゆっくりと息を吐き出すと、周囲のざわめきが遠くへ遠ざかり、世界にたった二人きりで漂っているような、濃密な多幸感に包まれた。
「でしょ? あっさりしてて美味しいんだ。気に入ったならもう一口どう?」
「いただきます」
「ん」
小さな、けれど欠かせない幸福感が胸を満たしていく。甘い香りが、忘れがたい記憶として深く刻まれ、店内の柔らかな光が二人を優しく、静かに照らし続けていた。
「朔さん」
「ん?」
「これ…」
彼女はバッグから、大切に守るように持っていた小さな箱を取り出した。
「…バレンタインのチョコレートでしょ? 俺がもらっていいの」
「朔さんに渡したくて持ってきたんです。でも、今日は大学で会えなかったから」
テーブルの上で手渡した小さな箱の重み。彼女がずっと抱えていたその熱が、指先から彼へと伝わっていく。胸の奥がじんわりと、そして激しく熱くなる。視線を合わせると、言葉にできない感謝と、剥き出しの緊張が入り混じる。
「ありがとう。……うれしい」
「たぶん、美味しいと思います。…市販の板チョコを固めて冷やしただけだし」
「手作りなの? そんなのますますもったいなくて食べられないよ」
「食べてください。何回も作り直したんですから」
「……うん」
カフェの温かい空気と、充満する甘い香りが、二人の流れる時間をゆっくりと、永遠を願うように包み込む。窓の外には夜の街灯が静かに、そして厳かに光り、二人だけの世界が、冬の闇の中でどこまでも柔らかく広がっていった。