名前:ギュレル

愛の言葉6個目

(⌒∇⌒)

冬の空は、磨き上げられた硝子のように青く、高く、どこまでも澄み渡っていた。傾きかけた夕陽が街の輪郭を柔らかな朱色で縁取り、建物の壁面には琥珀色の光が微睡んでいる。街路樹は季節の移ろいに抗うことなく、その葉をほとんど路面に預け、残された裸の枝が冷たい冬の光を格子状に透かしていた。
歩道を行き交う人々の吐息は、空気に触れた瞬間に白くほどけ、生きている証を刻んでは消えていく。ビル風が時折意地悪に吹き抜け、コートの裾をパタパタと揺らした。アーケードの下に差し込む淡く静かな光と、夕闇に備えて灯り始めたネオンの鋭い青。その二つの光が、黄昏時の街に独特の温度差と、どこか幻想的な奥行きを与えていた。
「貴女ちゃん、こっち」
雑踏の音を縫って届いた、耳に馴染んだその声に弾かれたように振り返る。視線の先、少し照れたように、けれど慈しむような笑みを浮かべた朔が片手を振っていた。マフラーに半分埋まった顔と、冷たい風に少し赤くなった鼻先。それでも彼の周囲だけは春が訪れたかのように暖かく、彼女の足は磁石に引かれるように自然と歩幅を早めていく。
「ごめんなさい。待たせちゃいましたか?」
問いかけながら、自分の靴底が濡れたタイルを捉える感触に神経が集中する。踏みしめるたび、微かに滑る冷たい感触が足先から伝わってくる。焦りか、それとも期待か、左胸の奥がトクトクと速い鐘を鳴らしている。彼女はそれを悟られぬよう、一度深く冷たい空気を吸い込み、肺の中から自分を落ち着かせた。
「ううん。俺もさっきついたとこ」
隣に並んだ瞬間、背中越しに伝わってきたのは、期待通りの柔らかな安心感だった。その温もりが、肌を刺す冬の街の冷たさを、砂糖が溶けるようにゆっくりと和らげていく。街灯が灯り始め、アスファルトに二人の影が細長く伸びた。影が重なり、揺れるたび、彼女は隣を歩く彼の呼吸を盗むようにして、無意識に歩幅を揃えていった。
「あの、…それで私に話って」
「このあと予定ある?」
問いかけに対して、予期せぬ質問が返る。二人の間に、一瞬の真空地帯のような沈黙が生まれた。冬の刺すような風が街路樹の枝を激しく揺らし、カラカラと乾いた音を立てて落ち葉が歩道を転がっていく。遠くで響くバイクの重低音、誰かの話し声、行き交う車のタイヤの音。そんな日常の雑音が、今の二人にとっては心地よいカーテンのように背景へ溶け込んでいった。
「特には」
「よかった。じゃ、ちょっと付き合ってよ」
彼の屈託のない笑顔に、張り詰めていた緊張がふっと緩む。歩き出すと、普段なら意識にも留めない古びた看板や、ショーウィンドウに貼られた派手な広告の色彩が、なぜか映画のワンシーンのように鮮やかに瞳に映り込んだ。
「…朔さん」
そっと名前を呼んでみる。その瞬間、胸の奥がちくりと、甘い痛みを持って疼いた。喉のすぐそこまで出かかっている、けれど形にするのが恐ろしいほどに膨らんだ感情。言葉にならない想いが、冬の澄んだ空気の中で飽和していく。すると、不意に右手の指先に、彼の手のひらの温もりが触れた。
「ごめん。聞く前に繋いじゃった」
驚きに目を見開いた刹那、風が吹き抜け、コートの襟元を冷たく撫でた。けれど、繋がれた手から流れ込む熱が、身体の奥に潜んでいた小さな緊張の結び目を一つずつ解いていく。口元が自然に緩み、こらえきれない笑みが零れそうになった。
「どこに行くんですか?」
「んー、最終目的地は決まってるんだけどちょっと寄り道しない?」
歩道に映る二人の影は、今や密接に寄り添い、街灯のオレンジ色とネオンの青が混ざり合う境界線の上で揺れている。どこへ連れて行かれるのか、何が待っているのか。子供の頃に感じたような、純粋で無垢な冒険への期待が、彼女の心の中でふわりと風船のように膨らんだ。辿り着いたのは、少し時代に取り残されたような気配を纏ったアミューズメント施設だった。
「ゲーセンなんてまだあったんだ」
「最近どんどん潰れてるもんね。ここも、危ないらしいけど」
重い扉を開け、アーケードの入り口に足を踏み入れる。そこには、古い空調が唸る音や、どこか懐かしいポップコーンの甘い匂いが充満していた。電子音の嵐、子供たちの甲高い歓声、メダルが払い出される金属的なカラカラという音。外の静謐な冬の夕暮れとは対照的な、混沌とした、けれど活気ある非日常の空気が二人を包み込む。
「なにかやりたいゲームでもあるんですか」
「あれ」
彼が指差したのは、煌びやかなネオンに照らされたプライズゲームの筐体……ではなく、その横にそびえ立つ、エアホッケーの台だった。そしてその傍らのガラスケースの奥、王座に座るかのように鎮座していたのは、見上げるほど大きな等身大のぬいぐるみ。柔らかな毛並みが照明を反射し、深い影とのコントラストがその存在感を強調している。
「等身大のうさぎのぬいぐるみですか」
「この前別のとこで見かけたんだけどなくなってたんだ。それ友達に言ったらここにあるよって教えてくれてさ」
早口で説明する朔の声には、隠しきれない少年のような期待とわくわくが滲み出していた。なんでも、ここの店員と対戦して勝てば、あの大きなぬいぐるみが手に入る特別ルールがあるらしい。ぬいぐるみに注がれる真剣な熱意。そして、同意を求めるようにこちらを覗き込む彼の真っ直ぐな視線。その気圧けおされるような熱意に触れ、彼女の胸の奥までがじわりと熱くなる。
「…今?」
「タイミングが悪いのはわかってる。貴女ちゃんに連絡してから友達から情報がきたんだ。ねえ、お願い。あれがほしいんだ」
「いいですよ」
「ありがとう! すぐ終わらせるから」
ゲーム機が放つ電子的な喧騒の中、朔が店員を呼び出し、マレットを握る。その横顔は、驚くほど真剣だった。普段の穏やかな大人の余裕はどこへやら、獲物を狙うハンターのようなその表情に、彼女は思わずクスクスと笑みをこぼす。パックが激しく盤面を跳ね、朔の鋭い攻撃が店員を圧倒していく。小さな勝利の演出が画面で弾けるたび、彼の白い頬に微かに熱を帯びた赤みが差すのを、彼女は愛おしむように見つめていた。
「朔さん、エアホッケーすごい強いんですね! 完勝じゃないですか!」
最後のパックがゴールに吸い込まれる激しい音と共に、彼女は感嘆の声を上げた。朔さんは少し得意げに、手にしたマレットを軽く回してみせる。
「俺、あれ得意なんだよねー。ネットでもできるけど、やっぱ自分の手でやるのが楽しいんだ。今度貴女ちゃんもやる?」
「…さっきの見せられて勝てる気がしないんですけど」
「大丈夫、手加減するよ」
悪戯っぽく笑う彼を見上げながら、彼女は自分の中に広がる意外なほどの充足感に驚いていた。普段の自分なら、こんなゲームセンターの喧騒の中で、たかがゲームの結果に一喜一憂することなどなかったはずだ。けれど、朔と視線を合わせ、同じ音を聞き、同じ空気を吸っているだけで、モノトーンだった世界に鮮やかな絵の具をぶちまけたように、すべてが輝いて見える。
「俺の用に付き合わせちゃってごめんね。そろそろ行こっか」
「次はどこに行くんですか?」
「最近新しくできたカフェなんだけど、雰囲気がいいって評判になってたんだ。大学生の女性客が中心みたいだから、きっと貴女ちゃんも気に入ると思う」
外に出ると、夕陽はさらにその色を深め、建物の影をより長く、より鋭くアスファルトに伸ばしていた。通りのタイルには、燃えるような夕映えが淡い紅色の光を映し出している。二人の規則正しい足音と、静まり返り始めた街を渡る風の音が重なり合い、冬特有の冷たくて清潔な匂いが鼻腔をくすぐる。