広大な敷地を、しんしんと降り始めた雪が白く染め上げていく。最新の研究棟が並ぶエリアを抜けると、街灯の間隔は広くなり、闇が深さを増す。
貴女は、マフラーに顔を埋めながら、冷え切った空気の中を足早に駅へと向かっていた。十九歳の冬。ようやくキャンパスの広さにも慣れ、第二外国語や専門基礎科目の課題に追われる日々。先ほどまで研究室で教授に相談していたのは、来年度からのゼミ選考や、専門課程への分科に関する予備知識だった。けれど、その知的な時間は、目の前の光景によって一気に現実味を帯びた色に塗り替えられる。
街灯の淡いオレンジ色の光の下、一台の高級車の傍らに、見慣れた後ろ姿があった。
「先生」
呼びかけに応じ、彼はゆっくりと振り返った。眼鏡の奥の瞳が、驚きにわずかだけ細められる。
「貴女さん?」
「先生も帰るんですか」
いつもなら研究の灯を遅くまで絶やさない彼が、この時間に外にいるのは珍しい。その手には、研究資料とは明らかに質の違う、華やかな紙袋がいくつか握られていた。
「…ちょっと急用が入ってしまって」
教授は、手に持った荷物を少しだけ隠すように後ろへ引いた。その仕草が、かえって彼という人間の持つ「隙」を強調しているようで、彼女の胸の奥をチリリと刺した。
「ひょっとして、本当はもっと早く帰る予定だった?」
さっきまで研究室で時間を奪ってしまった自分への後悔が口を突いて出る。彼は、わずかに積もり始めた雪を払うように首を振った。
「貴女さんが気にすることではない。学生のきみが教授である僕を頼るのは普通のことだ」
その言葉は、どこまでも正しく、そして残酷なほどに境界線を引く。けれど、彼女の視線はその言葉の先にある「異様」な光景に釘付けになった。彼の車のボンネットの上。そこには、雪に濡れながらも主張を激しく放つ、色とりどりの包みが無造作に置かれていた。
「あ……」
「見られてしまったか」
教授は、観念したように息を吐いた。白く濁った吐息が、夜の闇に溶けていく。
「やっぱりモテるんですね」
先ほど室内で聞いた「半年はチョコに困らない」という話が、冗談ではなく凄惨なまでの現実として目の前に転がっている。
「受け取りは拒否しているんだけど、車のボンネットの上に置かれるとどうしても」
「ボンネットの上」
「気持ちはうれしいんだけど」
彼はそう言いながら、雪に濡れた包みを一つずつ丁寧に、どこか事務的に拾い上げ始めた。かつて「手作りは捨てる」と言い切った彼の、冷徹なまでの防衛本能。その一方で、こうして晒される好意の残滓を片付ける彼の背中には、隠しきれない疲労と孤独が滲んでいる。
雪は次第に勢いを増し、二人の間に白いカーテンを引こうとしていた。彼女は、コートのポケットの中で握りしめていた小さな箱を、震える手で取り出した。
「……先生」
「なにかな。……これは、チョコレート?」
「はい。…既製品です。包装紙とリボンは私が買ったものですけど」
室内での会話をなぞるような、必死の弁明。自分が中身をすり替えていないこと、疚しいものは入っていない、純粋で安全な「製品」であることを強調する。その滑稽なまでの必死さが、自分でも可笑しくて、けれど切なかった。
教授は、彼女が差し出したその小さな箱をじっと見つめた。ボンネットの上に置かれた、一方的で重圧のある贈り物とは違う、対話の果てに差し出されたささやかな箱。
「本来なら手渡しは受け取らないんだけど、…もうここは大学内じゃない」
彼は少しだけ、悪戯っぽく、そして氷が解けるような柔らかさで微笑んだ。その表情は、教壇で見せるものとは違う、一人の男としての素顔に近い気がした。
「ありがとう。いただくよ」
彼の手が、彼女の差し出した箱を包み込む。指先が触れた瞬間、冬の寒さを忘れるほどの熱が彼女の全身を駆け抜けた。
「先生…」
言葉にならない熱い塊が喉元までせり上がる。
「早く帰るんだよ。じゃあ、また明日」
教授は、彼女から受け取った箱を、他のどの贈り物とも違う、コートの内ポケットへと大切に収めた。その小さな動作が、彼女にとってはどんな言葉よりも重い意味を持っていた。
遠ざかっていく車のテールランプが、雪の中に赤い光の尾を引いて消えていく。
貴女は、空っぽになった自分の掌をそっと握りしめた。大学一年生の冬。まだ何者でもない自分と、高い城壁の中に住む教授。
けれど、彼が今夜口にするのは、きっと自分が選んだ既製品の味だ。そう思うだけで、降りしきる冷たい雪さえも、甘く優しいものに感じられるのだった。