名前:ギュレル

愛の言葉6個目

(⌒∇⌒)

国立大学の研究棟、その最上階に近い一角。最新のセキュリティと免震構造を備えたこの建物は、夜になると都市の夜景に溶け込む巨大な水晶体のように静まり返る。
知の最前線とも言える教授個室の内部は、高い天井まで届く特注の書架に埋め尽くされ、空調の微かな動作音以外は、まるで真空の中にいるような静寂が支配していた。
貴女は、デスクを挟んで教授と向き合う革張りの椅子に、もう一時間近く座り続けている。手元の厚い専門書には付箋がいくつも踊り、彼女が今日この場所で熱心に指導を受けていたことを物語っていた。
しかし、一通りの議論が終わり、教授が確認のために資料をめくり始めた頃から、彼女の視線はデスクの端に置かれた、開封済みのチョコレート菓子の箱へと吸い寄せられていた。そこから派生した思考は、窓の外で刻一刻と深まっていく夜の帳に混じり、どこか捉えどころのない場所へと彷徨い出す。
「貴女さん」
教授が、万年筆を置いて彼女を呼んだ。室内の気圧がわずかに変わったような、静かだがよく通る声だ。
「………」
彼女の意識は、窓ガラスに映るぼんやりとした照明の反射と、その向こう側に広がる広大なキャンパスの闇の境界線に沈んでいた。
「貴女さん」
二度目の呼びかけは、先ほどよりも明確に彼女の意識の層を突き抜けた。
「へぁっ!??」
およそこの洗練された研究室には似つかわしくない、裏返った声が上がる。彼女は跳ねるように肩を震わせ、膝の上で揃えていた指先を慌てて組み直した。
「具合が悪いわけではなさそうだ」
教授は、眼鏡の奥の瞳をわずかに和らげ、安心したように唇の端を緩めた。その厳格な美貌に差す僅かな慈しみは、彼が心を許した教え子にしか見せない稀少な表情だった。
「へ? …元気ですよ?」
彼女は顔を上気させ、弁明するように言葉を継ぐ。最新の調度品に囲まれたこの空間で、自分の抜けた反応がどれほど滑稽だったかを自覚し、気恥ずかしさが一気に押し寄せた。
「うん。さっきの反応でわかる。でも、ボーッとしていて僕の呼び掛けに気づいていなかったから心配してしまった」
「…すみません。せっかくお時間をいただいているのに」
申し訳なさそうに視線を落とす彼女の視界に、再びあのチョコレートの箱が入る。先ほど、別の研究室の学生が「糖分補給にどうぞ」と半ば強引に置いていったものだ。
「気にする必要はない。これが僕の仕事だ」
教授は淡々とそう告げると、手元のタブレットをスリープモードにした。その動作一つ一つに無駄がなく、理性的だ。だからこそ、彼女は先ほど彼が見せた「ある反応」が気になって仕方がなかった。
「先生って、甘いものは嫌いですか」
不意の問いかけに、教授は少しだけ意外そうに眉を上げた。
「なぜ?」
「さっき月森さんにもらったチョコレートポッキーをすごい顔で食べてたから」
その指摘を受けた瞬間、教授は苦虫を噛み潰したような、あるいは解けない数式を前にしたような、何とも形容しがたい表情を浮かべた。
「見られてたか。……これといって嫌いなわけではないんだ。ただ、思い出がありすぎてまだ僕の中で折り合いがついていない」
「折り合い」という言葉には、彼が歩んできた華々しくも過酷な過去の断片が、重く沈殿しているようだった。
「バレンタインデーとか、どうしてたんですか」
大学の構内も、ここ数日はどこか浮ついた熱を帯びている。知の殿堂であっても、季節の行事がもたらす喧騒からは逃れられない。
「バレンタイン?……ああ、もうそんな時期か」
教授は、背後の大きな窓に目を向けた。そこには、都市の夜景を背負った自分自身の冷徹な影が映し出されている。
「先生モテそうだし、いっぱいもらってそう」
彼女の少しからかうような、けれど純粋な敬愛の籠もった言葉に、彼は遠い学生時代の記憶のページを、静かに、そして少しだけ忌々しそうにめくった。
「学生時代は断っていたよ。でもそしたら机の中だとか、下駄箱の中だとか、人伝に渡されるようになった」
その整った容姿と、当時から他を寄せ付けないほど鋭かった知性。彼が歩くたびに周囲の視線が集まる光景は、今も昔も変わらないのだろう。
「…捨てました?」
「手作りと思われるものだけ」
教授は迷いなく、断定的に答えた。その声には、冷酷さというよりは、生存本能に近い断固とした拒絶が宿っている。
「捨てちゃうんだ」
「捨てるっていう事実だけを見ればたしかにひどいか」
自嘲気味に吐き捨てた彼の瞳には、かつて向けられた「好意」という名の、制御不能なエネルギーへの恐怖が微かに滲んでいた。
「だいぶ」
彼女が眉をひそめて抗議すると、彼は椅子をわずかに回転させ、真っ向から彼女を見据えた。その瞳の深淵には、甘いお菓子の話題には似つかわしくない、昏い記憶が潜んでいる。
「髪の毛入りとか、なんだかわからない苦い液体入りのチョコレートとか食べたい?」
「嫌に決まってるじゃないですか。土下座されて頼まれても嫌です」
想像を絶する返答に、彼女は思わず身を震わせた。純粋な想いが、いつの間にか執着という毒に変わってしまう。彼が、どれほど歪んだ思慕に晒されてきたのか、その一端に触れた気がした。
「そういうこと。だから、未開封の既製品以外は食べなかった」
それが、彼が自分自身の心を守るために、長い年月をかけて築き上げた高い城壁だった。
「既製品と手作りの割合ってどれくらいでした?」
「半々、か既製品の方がすこし多かったくらい」
「それを、一人で?」
彼女は、独り静かな部屋で、既製品のパッケージを無機質に開封し続ける若き日の彼の姿を思い描いた。
「バレンタインデーがくるとその後半年くらいはチョコレートには困らなかったから、助かってはいた。疲れたときとか、ちょっと口寂しいときに舐めるのに最適だったから」
「そうですか…」
彼は、他者から一方的に投げつけられた感情の残骸を、合理的に「栄養」として処理することで、何とか心の均衡を保ってきたのかもしれない。半年分の甘味。それは、彼が耐え忍んできた孤独と羨望の象徴でもあった。
部屋のスマート照明が、時間に合わせてわずかに照度を落とした。外界の喧騒を遮断したこの空間にも、確実に夜の深まりが訪れている。
「だいぶ暗くなってきた。貴女さん、時間は大丈夫?」
「あ…そろそろ帰ります」
彼女は慌てて自分の資料をまとめ、鞄を抱え直した。機能的な研究室の中に、彼女が持ち込んだ人間らしい温かな気配が揺れる。
「それがいい。今夜は雪になるそうだから、まだ降っていないうちに帰った方がいい」
教授は立ち上がり、彼女を出口の扉へと導いた。その足取りは優雅で、どこまでも洗練されている。
「はい。先生、今日はありがとうございました」
「次の小テスト頑張って」
扉を開ける際、最後に振り返った彼女の瞳に、教授の少しだけ寂しげな、けれど柔らかな微笑みが映った。
「はい。…先生、さようなら」
重厚な扉を閉めると、再び最新鋭の研究棟特有の、静謐で無機質な廊下が広がっている。エレベーターを降り、建物の外へ出ると、予報通り冷たい風が吹き抜け、街灯の光の中に小さな白い粒が踊り始めていた。