扉の向こう側に気配が立ち、わずかに遅れて規則的なノックの音がした。その乾いた響きが、私がクッションで作り上げた不格好な城壁の静寂を乱す。胸の鼓動が、部屋の隅にある時計の秒針を追い越すほどの速さで脈打ち、喉の奥がカラカラに乾いていくのが分かった。私は、自分が用意したこの「逃げ場のない空間」の端に膝を抱え、彼を迎え入れる心の準備を整える。いや、そんなものはいくら時間をかけても整いはしないのだ。
私は、返事もせず扉を開ける。そこには、廊下の冷気を纏ったギュレルが立っていた。影を背負った彼の姿は、夕闇の青に溶け出しそうなほどに神秘的で、けれどその瞳だけは、飢えた獣のような鋭い光を湛えて私を見下ろしている。私は震える声を隠すように、傲慢なほどの響きを込めて言い放った。
「脱いで」
「ずいぶんと積極的ではないか。よほど楽しみにしていたようだ」
彼の低い声が、狭い部屋の空気を心地よく震わせる。ギュレルは躊躇うことなく指を動かし、丁寧に整えられていた衣服を解いていく。布擦れの音、そして彼の衣服が床に落ちる音が、静まり返った部屋の中で驚くほど重く、淫靡に響いた。
露わになるのは、硬質な筋肉を宿した美しい褐色の肌。その肩に、絹糸を紡いだような銀髪がさらりと滑り落ちる。窓から入り込むわずかな月明かりを反射して、彼の肉体はまるで磨き上げられた彫像のように、冷たくも熱い存在感を放っていた。その一つひとつが、私の網膜に焼き付き、視線を縫い止め、どこにも逃げられないように私を追い詰めていく。
「そんな余裕続かないんだから」
強気な言葉を口にしながらも、指先はクッションの端を強く握りしめていた。私の焦りを見透かしたように、ギュレルは不敵な笑みを深くする。
「言うじゃないか」
視線が、彼の身に纏う赤い下着に吸い寄せられた。その鮮烈な色は、冷静を装う彼の内側に潜む情動の激しさを物語っているかのようだ。今は静かに佇んでいるその奥に、私を飲み込み、食らい尽くそうとする「なにか」が潜んでいることを、私は本能的に察知していた。無意識に喉が鳴り、ごくりと唾を飲み込む。
私は、床に置き去りにされていたあのボトルを手に取った。ボトルの蓋が開き、とろりと、乳白色の液体――白いチョコレートが私の掌に広がる。その瞬間、人工的な、けれど抗いようもなく甘美な香りが、部屋の空気をゆっくりと、確実に侵食していった。それはバニラのようでもあり、もっと重たい蜜のようでもある。私がずっと探していた、けれど手に入らなかった憧憬の色。
「ホワイトチョコじゃん。これどこで? 私が探しても見つけられなかったのに!」
驚きとともに、小さな子供のような純粋な問いが口を突いて出た。彼は、衣服を脱ぎ捨てたままの自由な姿で、私の混乱を愉しむように目を細める。
「企業秘密だ」
「…っく」
言葉に詰まり、悔しさと高揚が胸の内で渦を巻く。感情の輪郭が曖昧になり、怒りなのか歓喜なのか判別がつかなくなる。ギュレルは私の手を取り、その上に溜まった白濁した甘い液体へと顔を近づけた。彼はゆっくりと私の手の上のそれを舐め、その味を確かめるように舌を滑らせる。私の手のひらに、彼の熱い舌の感触が直接伝わり、背筋に震えが走った。
「味は、まあ、普通だな。ほら」
彼は、指先に残ったチョコレートを私の唇へと運ぶ。私は導かれるままに、その甘みを舌に乗せた。
「思ってたより、普通だね。もっと美味しくないか、逆にめちゃくちゃ美味しいかのどっちかかと」
舌に残る甘さは、記憶にあるチョコレートよりもずっと控えめで、油分を含んだ滑らかさだけが際立っていた。だからこそ、この味覚の乏しさが、これから始まる触覚の饗宴への「前触れ」に過ぎないのだということを、私の本能は冷酷なまでに理解してしまう。
「あくまでも肌に塗るものであって、食べ物ではないからな。しかし、これなら上等な方だろう。冷蔵庫には同じものがまだある。それは使いきってしまえ」
ギュレルは、私が用意したクッションの囲いの中へと、自ら足を踏み入れた。彼はクッションに身を預け、長い手脚を投げ出す。その姿は一見無防備に見えて、その実は私を罠へと誘う蜘蛛のように、致命的なほど挑発的だった。
「うん。じゃあ、いくよ?」
私はボトルを傾けた。白が跳ね、放物線を描いて彼の逞しい胸元へ、腹部へ、そして太ももへと降り注ぐ。褐色の肌の上で、白い飛沫が弾ける。あまりにも鮮烈で、背徳的な光景。視線を逸らしたいのに、その暴力的なまでの美しさに魂を惹きつけられ、私は指の隙間から覗くようにして、その光景を凝視した。
温かな彼の体温に触れ、白いチョコレートはゆっくりと透明度を増しながら溶け出していく。褐色の肌に白が混じり合い、境界が朧げになっていく。その様は、清純なものが汚されていくようでもあり、あるいは不浄なものが浄化されていくようでもあった。
「私の肌にホワイトチョコレートをかけたい、と言ったのは貴女だろう? なにを躊躇う」
ギュレルの声は、どこまでも冷静で、けれどどこか重たい熱を帯びている。彼の指先が、自分の肌に滴る白い雫をなぞり、ゆっくりと広げていく。
「そうだけど…なんか見ちゃいけないものを見てる気分」
私は、自分の罪悪感の正体を探しあぐねていた。愛する人への奉仕なのか、それとも、神聖なものを辱める悦びなのか。
「なんの想像をしているんだ。変態め」
「ギュレルに言われたくない!」
思わず声を荒らげて反論するが、私の頬は火照り、視界は熱で歪んでいた。私は逃げるように目を閉じる。けれど、闇の中ではいっそう鮮やかに、私の想像力は暴走を始めた。
鼻腔を突く甘い香りと、目の前に存在し続ける彼の圧倒的な体温。衣服を介さない、生身の人間同士の距離感が、思考の隙間に、意識の深層に、粘り気のある甘美な毒のように染み込んでくる。彼が呼吸をするたびに、チョコレートの香りが混ざった熱い空気が私の肌を撫でる。
不意に、強い力が私の手首を掴んだ。
「貴女、いつまで目を閉じているつもりだ。今の私は貴女への贈り物。遠慮せずに、好きにしていいのだぞ」
抗う間もなく、彼の腕に強く引かれる。私の体は、彼の逞しい胸元へと、白いチョコレートの海へと沈み込んだ。私の肌と彼の肌が、甘い液体を媒介にしてぴたりと密着する。
熱い。
どちらの体温なのか、どちらの拍動なのかも分からない。重なり合った肌の上で、白はゆっくりと、けれど確実に溶け、混ざり合い、二人の境目は完全に失われていった。もはや、どこからが私で、どこからが彼なのかを区別する術はない。ただ、この甘ったるい香りと、狂おしいほどの熱量だけが世界を支配していた。
耳元で、彼の吐息が震える。
「さあ、召し上がれ」
その言葉を合図に、私は、もう二度と引き返せない甘い奈落へと、真っ逆さまに堕ちていった。