窓から差し込む冬の光は、午後三時の静寂をいっそう深く、柔らかな輪郭で縁取っていた。レースのカーテンを透かして届く光の粒子は、浮遊する埃さえも金色の細かな結晶のように見せ、リビングの空気をどこか神聖なものへと変質させている。外の世界では風が枝を揺らしているのかもしれないが、この部屋の中だけは、時間が琥珀の中に閉じ込められたかのように停滞していた。
私はギュレルの足元に正座し、その重苦しいほどに澄んだ空気の中で、自身の背筋をぴんと伸ばしていた。膝に置いた両手は、緊張のあまり微かに震えている。視線の先には、スラックスに包まれた彼の長い脚がある。私は大きく息を吸い込み、肺の奥に冬の冷たさを溜め込んでから、意を決して言葉を紡いだ。
「…私の肌にホワイトチョコレートをかけたい、と?」
低く、けれど深い響きを持ったギュレルの声が、部屋の静寂を静かに波立たせた。その問いかけには、嘲笑も驚愕も含まれていない。ただ事実を確認するような、淡々とした温度だけが宿っている。
「はい……」
答えた瞬間、心臓が肋骨の裏側を強く叩いた。自分の口から出た言葉の、あまりの突飛さと卑猥な響きに、耳の裏までが熱を帯びる。だが、一度放たれた言葉はもう取り返せない。私は逃げ場を失ったまま、恐る恐る彼を見上げた。そこには、彫刻のような端正な顔立ちを崩さないギュレルの姿があった。切れ長のクリアブルーの瞳が、ゆっくりと瞬きを繰り返す。その青は、真冬の早朝の海のように静謐で、覗き込む者の思考を吸い込んでしまうほどに深い。その視線に射抜かれると、自身の愚かな欲望も、隠しておきたかった情動も、すべてを白日の下に晒されているような錯覚に陥る。
「貴女は突然変なことを言い始めるな。…まあ、いいだろう」
ふっと、彼の口元に微かな苦笑が浮かんだように見えた。それは呆れているようでもあり、あるいは子供の我儘を許容する大人の慈悲のようでもあった。拒絶されなかったという安堵が、張りつめていた私の肩をわずかに緩ませる。ギュレルは優雅な所作で立ち上がり、キッチンへと向かった。
冷蔵庫のドアが開く音、カチャカチャと何かが触れ合う微かな金属音。リビングに残された私は、彼の背中を遠くから見つめることしかできない。冬の光は刻一刻とその角度を変え、壁に落ちる影を少しずつ長く伸ばしていく。私の鼓動は、彼が戻ってくるまでの秒数を刻むように、先ほどよりも速く、強く打ち鳴らされていた。やがて戻ってきた彼の手に握られていたのは、派手なラベルの貼られた一本のボトルだった。
「ここにラブグッズ用のボディチョコレートがある」
リビングの中央、ソファに腰を下ろした彼が差し出したその物体に、私は思わず目を疑った。
「…なぜ?」
「今日はバレンタインデーだろう? 貴女に使おうと思っていた」
「そう、なんだ…」
その瞬間、思考が真っ白に染まった。私は彼に「ホワイトチョコレートをかけたい」と願い、彼は私に「ボディチョコレートを使う」つもりでいた。この奇妙なほどに一致した意図は、偶然か、無意識の共鳴なのか。その事実に気づいた途端、脊髄を這い上がるような甘い悪寒が走った。
意識が急激に内側へと向かったせいで、肉体の悲鳴に気づくのが遅れた。顔をしかめ、体勢を変えようとした瞬間、両足に強烈な違和感が走る。
正座を始めてから、かなりの時間が経過していた。自重によって圧迫された脹脛と足首の間で血流が堰き止められ、皮膚の下で無数の針が蠢くような、不快な痺れが広がっている。床に触れているはずの足の感触が、まるで自分のものではない「異物」のように感じられ、感覚の麻痺が膝まで這い上がってきた。
「あの、…」
ボトルを検分していたギュレルの青い瞳が、こちらを射抜く。その眼差しは、先ほどまでの穏やかさを保ちつつも、どこか観察者のような冷徹さを孕んでいるように見えた。
「なんだ?」
「正座、やめてもいい? 足がもう限界なの」
「どのように?」
「いやもう皮膚が分厚くなってて感覚がない」
それは比喩ではなかった。自分の皮膚が数センチの厚みを持ったゴムか何かに変質し、外界との接触をすべて遮断してしまったかのような、気味の悪い感覚。脳裏に、幼い頃の記憶がフラッシュバックする。畳の上で、あるいはフローリングの上で、罰として命じられた正座の苦痛。どんなに時が流れても、この「痺れ」という名の小さな地獄は変わることがない。
「厚くはなっていないぞ」
ギュレルは私の足元を見つめ、至極真っ当な事実を口にした。
「そういう感覚なの! ギュレルも数十分正座してみればわかるよ」
思わず口を突いて出た反論。しかし、彼が正座をする姿など、逆立ちしても想像できなかった。資産家の家に産まれ、広大な屋敷で贅を尽くして育った彼にとって日本の「正座」という文化は、未開の地の奇習のように映っているのかもしれない。
「そういうものか。…いいだろう。貴女に辛い思いをさせたいわけではないからな」
彼は物分かりよく頷いた。しかし、その許しは遅すぎた。私は崩れ落ちようとして、その場に固まった。
「…ヤバい。動けない。今崩したら大変なことになるって足が言ってる」
血流が戻ろうとする瞬間の、あの「爆発的な痺れ」を想像するだけで、全身の毛が逆立つ思いだった。足はすでに自分の命令を聞かず、床に根を張った重たい石のようになっている。すると、ギュレルは静かにソファから降り、私の正面へと座り直した。彼の大きな体が太陽の光を遮り、私の視界に巨大な影を落とす。
「大げさだ」
彼はそう言うと、大きな手で私の脹脛から足の甲にかけて、ぐっと力を込めた。まるで行き場を失った血を無理やり押し流すかのような、容赦のない指圧。
「ほら、なんともないだr」
「ぎゃあ!」
悲鳴が部屋の空気を震わせた。血管の中に強い電流が流し込まれたような、凄まじい衝撃。痛み、熱、そして数万匹の羽虫が一斉に這い回るような、暴力的なまでの痺れの波。視界が明滅し、涙がじわりと滲む。
「貴女?」
「ひぃっ!」
あまりの刺激に言葉を失い、私はただ震えることしかできない。覗き込んでくる彼の瞳は、心配しているようにも見えるが、その薄い唇の端が、ほんのわずかに、愉悦を孕んで吊り上がっているのを見逃さなかった。その加虐的な笑みに、恐怖よりも先に、胸の奥をかき乱されるような熱い動揺が走る。
「貴女が辛い思いをしているのは私のせいだ。責任を持ってマッサージをしてやろう。ずっと同じ体勢でいたから血流が滞っているんだ」
「やーめーて!!」
必死の拒絶は、しかし彼の手によっていとも容易く封じられる。私の声は、痛みと快さの境界線で裏返り、自分でも驚くほどに甘ったるい響きを帯びて空気に溶けた。床の上で足をばたつかせるが、そのたびにカーペットの繊維が神経を逆撫でし、フローリングの冷気が痺れの芯を冷たく刺す。
「遠慮をするな」
逃げようとする私の足首が、ギュレルの細く強い指に掴まれた。万力のような確実さで引き戻される。彼の体温が、痺れて冷え切った私の肌にじわじわと侵食してくる。刺激の頂点を的確に捉え、なぞり、圧迫する指先。その執拗な動きは、もはやマッサージの域を遥かに超え、私の神経を一本ずつ弾く奏者のようだった。
「遠慮じゃ、……ぁ」
「貴女」
彼の指が、触れるか触れないかの、極限まで微細な圧力で肌を滑る。その曖昧な刺激こそが、最も私の理性を見事に削り取っていった。体は彼の接触を拒みながらも、同時にその熱を渇望し、意識の及ばない深部で熱を帯びていく。
不意に、ぬるりと濡れた感触が足指の間に割り込んできた。ちゅっと、空気を孕んだ湿った音が静かな部屋に響き渡る。驚愕して顔を向けると、そこには私の足を両手で捧げ持ち、指の間を丁寧に舐め上げる彼の姿があった。
傾いた夕陽が彼の銀髪を透かし、まるで光の糸を紡いでいるかのように輝かせている。その神々しいほどの美しさと、足指を弄る背徳的な行為。その落差に、私の心臓は壊れた時計のように激しく脈打った。
「んぇ…」
「汚い」と拒むべき口唇は、ただ熱い吐息を漏らすことしかできない。彼の舌先が、柔らかく、けれど貪欲に肌を這う。そのたびに、太ももの付け根がキュッとしびれ、自分でも制御できない震えが全身を駆け巡る。私は無意識に太ももを擦り合わせ、彼の手から逃れようと、あるいはもっと深く繋がろうともがいた。
その時、リビングに甲高いチャイムの音が響いた。冷水を浴びせられたような衝撃に、弾かれたように体が跳ねる。夕暮れに染まり始めた部屋の空気は、一瞬にして現実の冷たさを取り戻した。
「楽しみはあとに取っておくべきだな。すぐに戻る」
ギュレルは名残惜しそうに、けれど決然と私の足の親指を口に含み、ひと啜りしてから立ち上がった。その動作一つ一つが、私の肌に消えない刻印を残していく。彼の足音が廊下へと遠ざかっていくのを聞きながら、私は激しく乱れた呼吸を整えようと、必死に膝を抱えた。床に転がされたままのチョコレートのボトルが、赤黒い影を落として、これから始まる狂宴を予見しているように見えた。
私は這いずるようにして自室へと逃げ込んだ。もう、正座の痺れなど感じていない。代わりに、全身がもっと深い場所での「渇き」を訴えていた。クローゼットから、ベッドの上から、あらゆるクッションや枕をかき集め、私は床にそれらを並べた。それは、戻ってきた彼を逃がさないための、あるいは彼から逃げられないように自分を律するための、脆弱な城壁だった。
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