黒く冷たい冥府の中、暗い静寂に包まれた館の一室。そこに旅人の姿があった。
分厚い毛布にくるまれ、まだ身体には包帯が残るものの、彼は以前よりもずっと元気な表情を見せていた。

「怪我の具合はいかがですか?……少しずつ良くなってきているんですね……良かった」

その傍らに、少女のような神──魔女神がいた。
ウェーブのかかった黒髪の一房が片目を覆い、黒いロングドレスの裾を引きずりながら、彼女は甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
スープの温度を何度も確かめ、包帯の締め具合にまで気を配るその姿は、誰よりも優しかった。
ある日、旅人はふと尋ねた。
「……どうして、あなたはこんなに親切にしてくれるんですか?見ず知らずの僕に、こんなにも……」

魔女神はスプーンをそっと置き、目を伏せる。
しばらく沈黙したあと、彼女は小さな声で言った。
「本来助かっていたはずの命が、助からずに冥府に来た者や……誰かが手を差し伸べていれば死なずに済んだ者たちをたくさん見てきましたから……
あなたをほっておくことなんて……できませんでした……」
その言葉に、旅人の胸は温かさで満たされた。
彼女は不器用で、頼りないところもあるが、誰よりも優しい心を持った存在なのだと。
魔女神はそっと目を上げ、旅人を見つめて続けた。

「それに……あなたは、生きたまま冥界に落ちてきた……
そんなこと、本来あり得ないのです。
もしかしたらあなたには何かあるのかも……って」
それからの日々、2人は共に過ごし、互いに惹かれあっていった。
冥府の薄暗い館の中、時折灯る松明の火のように、彼女の笑顔は旅人の心を照らした。

やがて2人は恋人となり、互いの孤独を埋め合うように寄り添うようになった。
──そしてある日。
旅人は冥府を一時離れ、地上に行くと言った。
「どうしても、けじめをつけたい人たちがいる」と。

魔女神は寂しそうにうなずき、彼を見送った。
それから数日後。
旅人が戻った。

「旅人さん……寂しかった──」
魔女神はすぐに駆け寄り、その胸に飛び込んだ。
だが――

「……この匂いは……なんですか……?」
彼女の身体が、ぴたりと止まる。
抱きしめた旅人から、微かに香る、甘ったるく華やかな香水の匂い。
それは──女の匂いだった。
「…………う、そ……ですよね……?」
震える声が、次第に低く濁っていく。
彼女の体から、黒い炎がゆらりと立ち上る。

「……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる呪ってやる呪ってやるッ!!」
目が見開かれ、黒い瞳に狂気が宿る。
彼女の体を包む黒ドレスが波打ち、空気が焦げたような熱を帯びる。
「許せるものか……許してなるものかァ!!」怒気に満ちた叫びとともに、床が揺れ、館中に異様な圧が立ち込めた。
彼女は旅人の胸ぐらをつかみ、顔を至近距離まで近づける。

「その女は、誰ですか? どこの誰が……あなたに……こんな匂いを……ッ!」
「ま、待ってくれ! 違うんだ! あれは向こうで──たまたま、娼婦たちに絡まれただけで──ッ!」
「嘘だッ……嘘だ嘘だ嘘だぁあああッ!!」
全身からほとばしる闇の炎が、石の壁を焦がす。
彼女は目を見開いたまま、歯を食いしばり、うめくように言葉を吐いた。

「いいえ……もう、決めました……その女ども、永遠に苦しませてあげます……
肉体が滅んでも、魂が焼かれ続ける呪いを……冥府の底で、永遠に叫ばせてあげますから……ッ!!」

「それと……あなたも……
もう、どこへも行かせません……二度と……私のそばから、離れられないようにしてあげます……」
その声は甘く囁くようでありながら、狂気に満ちた決意の響きを持っていた。
旅人は、魔女神の狂気が愛から来ていることを理解し、真実を必死に伝えた。
「僕が地上に行ったのは、両親や友人に……永遠の別れを告げるためだ。
故郷のみんなに……もう、帰ってこられないって伝えるためだったんだ──」

「──君と、ここで生きるために……」
その言葉を聞いた瞬間、魔女神の瞳に宿った炎がふっと消える。
代わりに涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

「……そう、でしたか……うれしい……ほんとうに、うれしいです……」
「……旅人さん……私、あなたを愛しています……」
その夜、旅人は彼女の腕の中で眠った。
けれどその日を境に、魔女神は旅人を冥府の外へ出すことを、めったに許さなくなった。

だが──それでよかった。
旅人にとって、冥府はもはや死の国ではなかった。
そこは、愛する者と共に生きる、永遠の場所だったのだから。
──のちに地上で娼婦たちが次々と死んでいく現象が起きた。病であったり、事故であったり、理由は様々だ。
しかし、彼女らはみな死ぬ前に、一様にして黒い少女の影に追われる夢を見たという……