「こんなのにサインした覚えないっしょ〜?
 コイツね、そこで転がってる君のカレシ。金借りるとき合鍵使って君の部屋入って勝手に印鑑持ち出してきたらしいよ〜」

 ……いんかん。
 貴重品入れの棚を見やる。
 ぜんぜん気が付かなかった。使った後、また合鍵で入ってきて元の場所に戻したんだろうか。
 ……まぁ、今となってはそんなことどうだっていいが。

「君、とんっでもないロクデナシのクズ野郎と付き合ってたんだね〜。こんなゴミにはさぁ、合鍵なんて渡さないほうがいーよ?
 ってもう遅いか! あははははっ!」

 おかしくて堪らない、といった様子で男は○○の肩を引き寄せる。抵抗する気力は彼女にもう残っていなかった。
 思考に靄がかかって輪郭がぼやける。
 現実が一枚の膜を隔てた向こう側にあるみたいに、男の声が遠くから聞こえるようにも近くから聞こえるようにも感じる。
 瞬きをした拍子に、視界が滲んだ。
 つめたいしずくが、確かな重さを伴って落ちていく。
 声も出さず静かに泣く彼女の隣で、顔つきの変わった男が声音を落としてこう言った。

「たすけてあげようか」

 一拍遅れて、男の顔を見上げる。
 部屋の灯りを背にしているせいで表情は影に溶けている。
 けれどその目は先程までの鋭さを失い、○○を慈しむような感情を宿していた。
 その視線のまま、骨ばった指先が彼女の頬に伸び、静かになぞる。
 その手つきに悪意らしきものはどこにも見当たらない。
 しかし疑う理由がないからこそ、逃げ道も存在しなかった。

「助けてあげるよ。借金全額、俺が負担してあげる」

 ○○の表情は動かなかった。呆けたまま、ただ目の前の彼をじっと見つめる。
 うまい話には裏がある。それが分からないような子どもではない。
 借金を肩代わりしてくれる代わりに、自分はいったい何を要求されるのだろうか。5000万円分もの価値がある何かを、私は彼に差し出すことができるのだろうか。
 ○○がそう考えながら男の反応を伺っていると、彼は下を向いて数秒ほど静止した。
 そして次に顔を……、

 ……顔を上げたときの表情を見て、○○は思わず息を呑んだ。
 僅かに下がった眉尻。
 噛みしめるように閉じられている唇。
 こちらを見つめる瞳に孕んでいる色は、さっきまでの男のそれとはまったく別のものだった。

「5000万、ぜんぶ俺が肩代わりしてあげる。
 だから……だから、おれとつきあって」

 ″きみのおとこにして″……
 最後にぽつりと落ちた声に合わせるように、○○に頬にふれていた男の手も微かに震えた。
『良い子だから俺の言うことを聞いてくれ』と、そう言い含められている気がする。錯覚、だろうか。

「……あなたの、愛人になればいいの?」

「愛人じゃない。恋人……、彼女……になってほしい。セックスはしなくていい。でもキスはしたい」

 彼の手のひらには、さっきまで無かった熱が宿っている。未だ離れる気配はない。

「今の彼氏と……あいつと別れて、俺のそばにいてほしい。……ううん。ほしい、じゃないな」

 今度はまっすぐに、ぎらりとした刃のような瞳で○○を見据える。

「俺の女にならないと君の人生ぐちゃぐちゃになるよ。臓器でもマンコでも、売れるもんは全部売り捌いて5000万全額返すまで解放してやるもんか。
 君は、俺と付き合わないと全身ぼろぼろになりながら惨めに死んでいくことになる。絶対に。これは要求じゃない。……脅迫だよ」

 その声には震えが混じっていた。
 脅迫、と言っている彼の表情のほうが苦しげに見えるのは何故なのか。俺の女になれと言っているのにセックスはしなくていいという、その理由は何なのだろうか。小・中学生でもないのに(好奇心旺盛のマセた少年少女ならそのくらいの年齢でも経験している可能性はあるが)アラサーという生き物に片足を一歩突っ込んでいる女と性行為なしで恋人関係になって、本当に借金全額チャラなんてしてもらえるのだろうか。血と暴力に染まっているであろう非合法組織の世界で生きている男が、そんな飯事(ままごと)のような付き合い方で満足する? 何か他に狙いがあるとしか思えない。
 ……やっぱり私は騙されていて、あとで彼の仲間に輪姦されたり風俗に沈められたり、人間の尊厳を踏みにじられる辱めを受け、生きたまま地獄のような苦しみを味わわされ、最終的に殺されたりするのだろうか。
 そんなこと、ぜったいにいやだ。
 嫌……だ、が……、
 …………、

「……わかりました」

 でも、もうこうなってしまってはいつまでも考えていたって仕方ない。最早、○○は半分諦めていた。
 ここで頷いておかないと、本当に男が言っている通りの凄惨な最期を遂げることになるだろう。冗談じゃない。人間としての形を失い、むざむざと搾取されるだけの肉塊になるなんて御免だ。
 勝率は分からないが、それでも今は賭けに出るしかない……。

「あなたのものになります」

 平板な口調で言った○○に、男は悲しみと安堵が入り混じったような表情で微かに口元を緩めた。

「…………うん。ありがと。……ね、あの……さ」

 何やら落ち着かない様子で視線を泳がせている。

「……なんですか?」

「敬語じゃなくていいよ。俺ら同い年だし、これからは恋人……なんだし。あの……ね、」

 ちら、と控えめにこっちを見て、

「……キス、していい?」

「……」

 これが、ついさっきまで、彼……いや元彼の顔を足蹴にして笑っていたあの男なのか?
 別人のような態度に○○が訝しげな視線を向けると、男はみるみる眉を八の字にして顔の前で両手を振った。

「あっ……ダメだったらいいよ。そのうち、やってもらえれば……」

「……別にいいけど」

「へッ!? いいの!? マジ!?」

「ィやったー!!」と、その場でぴょんぴょん飛び跳ねる。
 金の取り立てに来た反社らしく、ひどく冷たい表情をしていたかと思えば、急に憂いを帯びた顔つきになったり、こうやって大はしゃぎすることもあるらしい。……変な人。

「じゃあ……○○ちゃんからしてくれる?」

「あ……うん」

 そっちからするんじゃないんだ。
 キスしていい? なんて聞いてきたからてっきり向こうからしてくるのだと……まあ、どっちでもいいけど。最終的には唇をくっつけなきゃいけないのだからその過程はどうでもいい。
 一歩近づいて、顔を見上げる。





「……、」

 ○○はその表情を見て、思わず動きが止まった。
 すごく……ものすごく顔が赤い。
 乙女のように頬を染めたヤクザから熱が籠った瞳で、じっと、じいっと見つめられ、はじめて体験する居心地の悪さに困惑した。
 さっさと済ませてしまおう、と彼に顔を近づける……が、身長差のせいであと少し届かない。

「……あの、ちょっと屈んでもらえるかな」

「ア゛!! ごめん!!」

 男が勢い良くしゃがみ込む。勢いが良すぎて風を切る音まで聞こえてきた。もし、この速さで手刀でも入れられたら絶対に避けきれないスピードだ。誰であったとしても見逃しちゃいそうである。
 ○○は(屈めって言っただけなんだけど……)と内心でツッコミながら自分も同じようにしゃがんだ。同じ目線で目が合った彼がますます顔を赤らめてこちらを見てくる。○○は目を閉じてから唇を重ねた。
 少しかさついてたが思っていたより柔らかいそれは……僅かに震えていた。
 ○○が鼻で小さく息をしたときに感じた気配で、彼が緊張しているのだと分かった。男の喉仏が上下に揺れる。
 離れると、彼は相変わらず頬を染めたまま自分の唇に指先を近づけ、触れるか触れないかの距離でなぞり、彼女との口付けの感触を思い返すような仕草をとった。まるでキスを初めてしたウブな乙女みたいな反応だなと○○はたじろぐ。

プロローグ4