何? 誰? 一体どういう状況? と、目の前の光景に困惑していると、黒髪の男が「遅くまでお疲れサマ。待ってたんだよ〜」と間延びした声を上げた。この場にはそぐわない緊張感のない声が逆に不気味に感じ、○○は身を強張らせる。
 男は懐から取り出した携帯灰皿で煙草の火を消し、それをしまうとこちらに視線をやった。ここで初めて彼の瞳の色が左右で違うということに気付く。

(……ん? 左右で色が……違う?)

 一瞬、何かが、ぱっと頭に浮かび、すぐに消えた。
 1秒にも満たない、それ。思い出しそうで思い出せない。頭の隅っこのほうで、ずっと突っかかっている気がする。





「電車で帰ってきたの?」

「……え? ええ……、あ、ハイ……まあ……?」

「そっか、この時間だとまだ電車あるもんねえ。
 あー、でもやっぱ心配だな。若い女の子が……いや最近は男でも全然危ないけどさ、ひとりで暗い夜道を歩くなんて。でも毎回毎回タクシーって訳にいかないもんねえ」

「……いや……あの、」

 ごくり、と唾を飲み込み、恐る恐る尋ねる。

「あの……どちらさま、ですか……?」

 ちら、と下のほうに目を向ける。
 後ろ手で手首を縛られて足まで拘束されている○○の恋人が泣きながら苦しそうに呻き、暴行も加えられたのか、顔もぱんぱんに腫れ上がっている。
 彼女はもう、とっくに『何らかの事件』に巻き込まれつつある……いや、すでに巻き込まれていると確信しているのだが、この場から逃げ出すという選択は取れずにいた。
 この黒髪の男が″そんなこと許さない″と全身で言っている。目、表情、声のトーン、仕草。ひとつひとつが「逃げたり大声を出すとどうなるか分かっているよな」と○○の行動を制限してくる。
 そのせいで逃げ出すことも、ましてや動くことさえ出来ない。足が地面にがっちりと張り付いてしまったような錯覚に陥って、棒立ちのままその場に留まり続けていた。

「彼の……知り合いの方、ですか?」

 尋ねると男はにっこりと笑い……いや、口角こそ上がってはいるものの、こちらをまっすぐ見据えてくる黒とグレーのオッドアイは、ほんの少しだって笑ってはいなかった。どちらかというと獲物に狙いを定めて忍び足で近づいてくる捕食者(ハンター)のような……。
 ○○が牙を向けられた標的になったような気分で身をすくめていると、急に男が立ち上がった。
 何をするのかと身構えたが、男はこちらには目もくれず、床に転がる○○の恋人の頭に片足を乗せ、そのまま体重を乗せた。

「グウゥッ……!」

 痛みに歪む顔と苦しそうな声が、○○の胸を締め付ける。

「やめて!!」

 駆け寄って止めようとした……が、男の鋭い目で射抜かれ、まるで心臓を手で鷲掴みにされたかのように体が動かなくなった。
 その針のような視線に囚われてしまい、「ぁ、……っ」と小さく喘ぎ声を漏らす。震える脚で、ゆっくりと、少しずつ後退りしようとすると……

「何してんの? こっち来なよ」

「……っ」

「ほら、そこ。座りな」

 恋人の顔に足を置いたまま顎をしゃくり、今しがた男が座っていたソファを指す。
 座れ、……と言われたものの、体がうまく動かず、喋ることもしない……出来ない○○に痺れを切らしたのか、男は軽くため息をついた。

「今すぐ座んないとコイツのツラの上でトランポリンみたいにして飛び跳ねまくっちまおうかな〜」

「グァア゛ッッ゛!!」

「ッ……!!」

「ははっ、人間の頭蓋骨ってどのくらい頑丈なんだろーね。何回ジャンプしたら砕けるか試してみよっか」

「グッ……、ヴゥウ……ッッ」

「やめてえッ!!」

 頬骨に置いた足にさらに体重をかけるように男が力を入れると恋人から悲鳴が上がった。喉元に泥と砂利が固まって張り付いてるようなしわがれた声だ。きっと今日一日で何度も何度も同じ苦痛の響きが地面に落ちては消えていったのだろう。
 ○○も咄嗟に叫び声を上げたが、それを合図するように男に再び視線を向けられ、体が硬直する。躊躇も長くは続かず、一拍の間のあと、彼女はソファに崩れ落ちるように腰を下ろした。
 つう、と背中に嫌な汗が流れる。

「ん、お利口お利口」

 満足そうに笑って、やっと顔から足を離した。
 ○○はとりあえずほっとしたが、彼のほうは「は……っ、はっ……!」と完全に息が乱れ、背中を丸めて怯え切っている。
 改めて目に入った恋人の姿は、顔も腕も、服に覆われていない部分は傷と痣に覆われていて、その痛々しさは顔を背けたくなるほどだった。なぜ私たちがこんな目に、と、そればかり考えてしまう。
 俯く彼女の前に、突然、黒髪の男が1枚の紙を放った。
 テーブルの上に落ちたそれを見て○○が目を丸くし、訊ねた。

「……なんですか、これ」

「しゃくよーしょ」

 しゃくよーしょ。

(……借用書?)

 その言葉を理解した瞬間、ぶわっ、と全身に鳥肌が立った。正体不明の目の前の男。体を拘束され、暴力を振るわれている恋人。そして、この借用書。
 ……何もかも、すべてが腑に落ちた。指先がすうっと冷えていく感覚がする。
 男は自分がテーブルに放り投げた紙……借用書、を指でつまみ、ひらひらと揺らしながら○○の眼前にかざしてくる。

「コイツねー、俺らんとこで借金してたの。しゃっきん。分かる? お金借りてたってイミ」

「…………は、い」

「バッカだよなぁ。ただのヤミ金だけなら兎も角さあ、うちにまで借りに来ちゃうなんて。頭が足りないと思わない? ねえ、○○ちゃん」

 ソファに座る○○の背後に回り、力の抜けた肩にぽんと手を置く。同意を求めているつもりだろうか。
 ○○が震える手で作った拳を握り締める。

「……あなた、は、」

「うん」

「ヤクz……あ、いえ……どこかの組の方……とかですか?」

「言葉選んだねえ」

 ふはっ、と吹き出す。何がおかしいんだ。こっちは全然笑えないんだが……と文句を言いたくなったが実際には口が裂けても言えない。○○に出来たのはただ唇を噛みしめることだけだった。

プロローグ2