(疲れたな……)
最寄り駅から自宅までの道をつかつかと歩く。
現在の時刻は20時過ぎ。本当はもっと早く帰れるはずだった。終業間際に急に上司から仕事を振られる、なんてことさえ無ければ定時で上がれるはずだったのだ。
周りに人がいないのをいいことに歩きながら肩を回す。こき、と小さな音が鳴る。
疲れで足が鉛になったみたいだ。……が、それとは対照的に○○の心は弾むように軽かった。自然と口元が緩ぶ。
いつもだったらこの後は、誰もいない家にただ帰るだけ。
だけど、今日は……。
カバンからスマホを取り出してメッセージアプリを起動し、慣れた手つきで画面をタップしていく。
『もうすぐ着くからね』
ひとことだけの短いメッセージを送ったら、すぐに″既読″と表示された。
そして数秒も経たないうちに「気をつけて帰っておいで」とレスが来て、○○はくすりと笑った。
こちらを気遣った言葉もそうだが、既読や返信が早いという、それだけのことがただ嬉しくて、胸のあたりがふんわりとほぐれていく。
*
数時間前。
残業が確定し、肩を落としていたその時、スマホにひとつのメッセージが届いた。
『今日、帰り何時頃になりそう?』
最近ちょっと○○への態度が素っ気ない恋人から送られてきたものだった。
メッセージの返信も遅く、電話で話していてもデートの最中でも、どこか心ここにあらずというか、反応が薄いというか、ここ数ヶ月は特にそんな感じだった。
自分のほうから連絡しなかったらこのまま自然消滅してしまいそうな空気を感じ取った○○は寂しさを感じ、静かな夜にひとり、冷たい布団のなかで涙を溢した日もあった。
『残業頼まれたから少し遅くなりそう。8時か9時くらいになるかな。どうしたの?』
返事をしてから、少し考える。
もしかして別れ話をしたいかな、と悪い想像ばかり膨らませてしまい、自分のこういうところが彼も嫌になったのかもしれないと自己嫌悪する。この考えすぎる癖が自分の悪いところだ……と自覚もあったが、未だになかなか直せずにいる。
ぱ、と既読がつき、また新たにメッセージが届いた。
『久しぶりに○○ちゃんに会いたくて』
その一文は、とても予想外のものだった。
確かに、ここひと月ほど会っていない。メッセージを送っても数時間後にたったひとことか、良くても二言くらいしか返ってこないので、こちらからも「会おうよ」となかなか言いづらかった。
どういう風の吹き回しなのかは知らないが、今日は彼のほうから連絡が来て「会いたい」とまで言ってくれた。
……嬉しい。
だらしなく緩む頬を隠すように俯き、画面に指を滑らせる。
『ありがとう! 出来るだけ早く終わらせるから、家で待っていてくれる?』
その文章のあとに続けて、ぺこりと頭を下げている可愛い黒猫のキャラクターのスタンプを送った。
彼は何度も○○の家に来たことがあって、合鍵も持っている。ひとりでも中に入れるはずだ。
『りょうか〜い(=^ェ^=)ニャ!!」
画面に表示されたそれを見て、○○は声を出して笑ってしまいそうになった。
自分が今打ったのと同じ種類のスタンプだ。
『オシゴトがんば♡』と、追加でメッセージまで送られてきた。
本当に珍しい。普段は連絡不精なだけでなく、スタンプなんて送ってこないのに。
付き合い始めたばかりの頃、○○は元々自分が持っていたこの黒猫のスタンプを彼にもプレゼントしたのだ。
でも『ありがと』のひと言だけで、それから一度も○○とのやり取りで使ったことなんて無かった。もしかしたら他人には使っていたのかもしれないけど、少なくとも彼女にこのスタンプを送ってきたことはない。今日が初めてだった。
……、
……そう。今思えば、この時点で気付くべきだったのだ。
メッセージのやり取りを面倒臭がるあの彼が、スタンプまで使って連絡してきたこと。
メッセージにハートマークなんて絶対使わないのに、今日に限って使ってきたこと。
最近そっけなかったのに「仕事頑張れ」なんて、彼女を応援するメッセージを急に送ってきたこと。
そして、普段は呼び捨てにするのに、さっきのメッセージでは「○○ちゃん」と、ちゃん付けで呼んできたこと。
思い返せば、この時から違和感はあったはずなのに気付けなかった理由は何だろうか。
彼という人間の本性と、人を見る目がない己の愚かさ。
その両方が分かっていなかったからだと、彼女は後で気付くことになる。
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