「やー、ありがとね。来てくれて」

 あの日、女と10年ぶりに再会してから俺は強引に連絡先を交換し、その日はそれだけで終わったが、後日、またもや強引に食事の約束を取り付けた。
 俺は女を連れて、大学時代から付き合いのある友人が経営する居酒屋に来ていた。予約していた個室に入ると、俺たち以外誰もいないこの空間で、女はモジモジモゾモゾと落ち着かなさそうに視線を彷徨かせていた。

(……すげえ顔。あれ全部傷跡か)

 女の顔や首元……肌の見える部分には、いたるところに生々しい傷跡があった。髪の毛で隠れているが、さっきチラッと右耳が半分ほど欠けているのが見えた。あの事故で女が負ったダメージは、俺が思っていたより大きかったらしい。
 ……。一瞬、心に暗い影が落ちたが、それに気づかないふりをしてテーブルの上のおしぼりで手を拭いた。
 女のほうも、おしぼりを小さく畳んで、それに視線を落とし、無意味に指先で弄っている。この状況が気まずいのだと、ひと目で分かる。

「……どうして、個室なの?」

「うん? 嫌だった?」

「……嫌って言うか……」

 女の言いたいことは分かる。うんうん、そうだよな。久しぶりに会う、昔自分を虐めていた男……自分の人生を狂わせた、これからも狂わされ続ける男と個室でメシなんて、落ち着かないだろう。

「いいじゃん別に。ふたりだと落ち着いて食えるっしょ」

 どの口が言うのか。発言し終えてすぐに自分で吹き出しそうになった。女の何とも言えない表情で、さらに笑いそうになる。

「俺、ちょっとお手洗い行ってくんね」

「座って待ってて?」と言い、個室を出る。女は短く返事をして、一瞬だけ俺の顔に視線を向けた。
 さて、と。
 ジーンズのポケットを確認する。うん、ある。手の中の、かさりとした軽い感触に小さく頷き、歩いて厨房に向かう。

「カナタ! 今ちょうど持って行くとこ!」

「さんきゅー。貰ってくわ」

「いいのか?」

「うん」

 厨房から出てきた友人からふたつ、注文済みのドリンクを受け取る。自分と、あの女の分。
 友人が厨房に戻っていくのを確認した後、ポケットにあった小袋を取り出す。封を開け、中の粉を女の酒に混ぜていく。

「ふんふーん……ふふーん……」

 気がついたら、店内で流れているポップスに合わせて鼻歌を歌っていた。これから起きるであろう出来事を想像すると、わくわくして仕方ない。こんなに楽しいと感じるのは久しぶり……いや、初めてではないだろうか。
 緩んだ口角のまま、酒を混ぜ続ける。



「それにしても、本当久しぶりだよね」

「う……ン、」

「○○ちゃん、全然変わってなかったからすぐ分かったよ。高校の時のまま……何にも変わらない」

 事故の後遺症と傷跡以外は、と。それだけは胸のうちでつぶやいた。

「……岸本くんも、変わってない」

「そ? まぁそうかも。○○ちゃん、すぐ俺に気付いてくれたもんね」

 女は酒の入ったグラスを両手で抱え、ほんのりと頬を染めたまま俯いた。あと、どれくらいかなー。早く効いてくれりゃいいんだけど。

「……なァ、○○ちゃんさ。それ、その指。あの時の……事故で?」

 今日、会ってから気づいた。ずっと気になっていたこと。
 俺が指をさした先は、女の左手だった。左手の薬指。爪先から第二関節まで……、なくなっていたのだ。

「ああ……うん、まぁ」

 女は、どこか言いづらそうに、俺にギリギリ聞こえるくらいの声量で返した。

「……そっか。他は、どこ? 事故の後遺症。足と腕もそうだよね?」

「……いや、あなたが気にするようなことじゃないから、」

「いいから教えて。全部」

 まっすぐ目を見つめて言うと、女は顔を逸らしてぼそぼそ話し始めた。

「……左腕と右脚に、麻痺が残ってて。あ、でも脚のほうは腕ほど悪くないの。走ったりはできないけど……、それと……左目、が、視力低下で……あんまり見えてない、かな」

「あとは?」

「慢性的な頭痛とか……倦怠感とか……それくらいだよ」

「それくらい、じゃないでしょ。その顔、すごいよねえ。傷跡。手術してもそんなに残っちゃうんだ? へえ、すげえ生々しいね。顔にそれだけあったら、きっと体のほうにも残ってるよね? 今はロングスカートだから見えてないけど、たぶん脚にもあるでしょ」

 女がわずかに目を見開いて、俺を見た。
 ゾクゾクする。こいつの考えてることが手に取るように分かる。
「この男、ずけずけと何を言ってくるんだ」……だろ? そう思ってんだろ? あー堪んねえ。もうここでヤッちまいたい。けど我慢。今は、まだ。

「ねえ、○○ちゃん。○○ちゃんさ、今フリー? 彼氏いないの? あ、彼女でもいいけど」

「……いない、けど」

「あ、そう。前は? 昔いたことある?」

「……い、ない」

「いないんだ! へー、そう! じゃあ処女か。処女だよね。誰とも付き合わず遊んでたわけじゃないでしょ? 俺と違うもんね。色々と」

 女の瞼が重そうに、瞬きを繰り返す。
 やっとか。

「……ど、して……そんなこと聞くの」

「んー? だって、」

 立ち上がり、眠そうな顔の女に近づいた。

「これからお前を犯して、ぶっ壊してやろうと思ってるから」

 女の体がぐらりと倒れそうになったので支えてやる。体、あっつ。こいつ、こんな酒弱いのか。知らなかった。

「付き合ってる相手がいたら可哀想でしょ? 彼女が自分の知らない間に男に犯された、なんて知ったら発狂モンでしょ。なあ?」

「お……、か……?」

「だぁいじょうぶ。今は寝ときな。俺の家まで運んでやるから」

「い……や、だ……」

「おー、よちよち。可愛いねえ、可愛いからねんねしようね」

 女は完全に瞼が閉じて開かなくなるそのときまでずっと何か言いたげだったが、間もなくスースーと静かな寝息が聞こえ始めた。
 自分の腕の中で眠る、無防備なその姿を見下ろして、うっすらと笑みが溢れた。
 荷物をまとめ、女を背負って個室を出る。

「あれ? もう帰んの?」

「いや、カノジョが寝ちゃってさ」

「そっかァ、じゃあしょうがねえな」

「代金、テーブルに置いてあっから」

「おう! 悪いな」

 朗らかな笑みを浮かべた友人に見送られながら店を出る。

「ほんと、あったけえ体。異常に軽いし」

 後ろに背負った女の寝息が耳たぶにかかり、腹の奥底で何か、未だ体験したことのない……そう、熱のような、溶岩のように熱く、どろどろとした何かが込み上げてくる。

 壊す。
 ぶっ壊してやる。
 何もかも滅茶苦茶にして、人生終わらせてやる。鳴いても喚いても絶対やめない。
 裸の写真を何枚も何枚も撮って、顔や陰部がしっかり映るように動画も回して、それをネタに脅して、暴れて抵抗するだろうから鼻血が出るまで殴って、今までの怨みを込めながら首を絞めて、女の尊厳ごと壊すように処女穴を犯してやるから、この世のすべてに絶望すればいい。
 俺と同じように、人生に、この腐れ切った世界に絶望すればいい。

 岸本彼方は安らかな笑みを浮かべながら、駐車場に停めている自分の車までの道を歩いた。
 満月が綺麗な、静かな夜だった。
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