あいつがトラックに撥ねられたのは高校3年の冬だった。出席日数はギリギリ足りていたようで、手術やら入院やらで俺が卒業するまで、一切登校してこなかった。
でも卒業してすぐ、本当に偶然、一度だけ街で会ったから聞いてみた。
「なんで、俺を庇った?」
簡潔。かつ、単刀直入に。そう尋ねると、女はこう答えた。
「別に……体が勝手に動いただけ」
女は、俺がした質問と同じように短く答え、「もう他に言うことは何もない」とばかりに顔を伏せ、目の前から去って行った。俺も引き留めたりはしなかった。
女の言葉を聞いて、何も反応できなかったからだ。指一本動かなかった。頭の中が、もやがかかったように真っ白になっていき、手足の先がスーッと冷えていく感覚に襲われた。
その場から、しばらくの間動けなかった。
通行人が何人も怪訝な顔をして、自分の横を通り過ぎていった。
*
その後、俺はテキトーに決めた大学へ行って、テキトーに友達付き合いをして、バイトやサークル活動もテキトー……いや、サークルはそこそこマジメにやっていた気がする。
バイト……も、なんだかんだで、生徒のひとりが自殺未遂してそれを1ヶ月引きずるくらいには熱心にやっていた、と思う。今、思い返せば……だが。
遊ぶ女もテキトーに。いや、自分にとっては女関係が最もいい加減だった。もちろん悪い意味での。
飲み会なんかで『そういう雰囲気』になった相手とキスをして、セックスもして、その日のうちに付き合うことになった。
誰かと付き合う、ということは初めてではなかった。
高校時代に付き合っていた女がいた。自分の初めての交際相手で、その女としたセックスが、俺の初めてのセックスだった。でも、そいつとは半年保たなかった。
飲み会で会った女も、高校時代付き合っていた女と同じだった。
セックス以外で他に良いと感じることがなかった。……いや、性行為でさえも、自分にはどこか義務的で、無機質で、射精目的以外に何の感情も湧かないものだった。
自分が性的快感を得て、溜まっていた欲を吐き出すだけの器。交際中の女に求めていることは本当にそれ以外なかった。何もかもがどうでも良くて、罪悪感すら湧かなかった。
相手を幸福にしたいとも、自分を幸福にしてほしいとも思わない。思えない。我ながら最低のクズだと思うが、自分は外面が良かった。今まで友人も、付き合ってセックスしたどの女も、俺の本性を見抜けなかった。馬鹿だ。あいつもこいつも、……自分も。
その女とは4ヶ月で別れ、数ヶ月後、今度は別の女と付き合った。そいつはもっと短かった。3ヶ月で終わった。そんな感じで俺の大学生活は終わった。
あっさりと、終わっていった。
卒業後はどこにも就職しなかった。
大学入学と同時に、親から与えられたマンションの一室。そこで相も変わらず、ひとりで暮らしながら、翻訳の仕事やら大学時代から始めていた株やらで生計を立てている。
付き合うだとか付き合わないだとか、もう面倒臭い。自分が性欲処理以外で相手に求めていることがないなら、それだけを目的に、相手のほうもそれだけが目当ての女と時々会うくらいでちょうどいい。
俺の連絡先には、お互いが『それ目的』で繋がっている女が常に3、4人いた。それで充分だった。
人生なんて、下らなくて簡単。我ながら世の中舐め腐っていると思うが、たまたま運良く要領良く生まれてきてしまったのだから仕方ない。
「死にてえなァ……」
上着のポケットに手を入れて歩きながら、ぽそりとつぶやく。あー、死にたい死にたい死にたい。今日は特にヘラ度が強い。恐らく今朝、女児が虐待死したニュースを見たせいだろう。ああ、あと何だっけ、誰だかってタレントが不倫したとか何とかってニュースも。
下らない。ああ、下らない。罪のない子どもが虐待され、殺されてしまう世の中。永遠の愛を神の前で誓った人間が、1年後あっさりと浮気する世の中。
本当に下らない。反吐が出そうだ。
向かいから歩いてくるカップルの女のほうが、彼氏に向かって「私なんかどうでもいいんでしょ!? だから最近あんまり連絡くれないんでしょ!?」と喚き散らしている。
おいテメー彼氏この野郎。「このメンヘラ糞うぜえ、ヒスってんじゃねえよ」みてえなツラしてんな殺すぞ。自分が惚れてる女なんだろ? こまめに連絡ぐらいしろや当然だろ。
確かに俺も、初めて付き合った女……名前何だったかな。まあいいや。元カノAに「最近冷たいよね」とか言われて「うっざ死ねや」って思ったことあるけど。でもその女は別に惚れてたから付き合っていたわけじゃねえしな……。
「死にたい死にたい死にたい……」
今日何度目かの「死にたい」を口にして何気なく前方に視線を向けると、停まっていたバスから女がひとり降りてくるのが見えた。
女は普通よりも時間をかけて、ゆっくりとバスを降りてきている。足を怪我でもしてるのだろうか。
「きゃっ!」
バスから降りた直後に女が転んだ。あーあー、荷物が辺りに散らばっちまった。
女は焦り、散らばった荷物をかき集め……ようとしているが、その動きももっさりと遅く、ふうふう息を乱して、カバンから飛び出た財布やポーチをしまうことさえひと苦労、と言った様子だった。
生きるのに苦労してそうだなと思いながら、その女を横を通り過ぎ……ふと、自分の足元にスマホが落ちていることに気付いた。
俺のではないので、誰のものかは考えるまでもなく分かった。
無言で女に差し出すと、女は荷物を拾おうと地面に向けていた顔をやっと上げた。
「あ、ありがとうございます……」
どくん。
心臓の音が、やたら大きく聞こえた気がした。
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