彼女がグラウンドで吐いて、保健室へ連れて行ったあの日。あの日から彼は彼女を目の敵にし続け、事あるごとに彼女に絡んできた。
小突いたり、足を引っかけてわざと転ばせたり、耳元で「ブス」「死ね」など罵倒したり、……すれ違いざまに、胸や股の間を触ったりすることもあった。
必ず、彼女がひとりのときを狙って、それらの陰湿ないじめを繰り返していた。
彼女は、自分にあんなに親切にしてくれたクラスメイトはなぜ急に態度が変わってしまったのか分からず、自分に冷たい目を向ける彼の視線を、常に緊張と怯えの混ざった表情で受け止めていた。
あの日から半年ほど経った頃。
友人たちと帰宅中の彼の視界に、今まさに横断歩道を渡ろうとしている『あの女』が映り込む。
「俺の前モタモタ歩いてんなよ、ブス」
彼女を追い越す瞬間、その彼女以外の誰にも気付かれないよう、彼は小声で吐き捨てるように言った。
……そしてすぐ、靴紐が解ける。よりによって、横断歩道のど真ん中で。
「おーい、何してんだよ!」
「悪ィ、解けたわー」
先に横断歩道を渡っていた友人たちに、「ちょい待ってて」と返し、靴紐を結び直そうとその場にしゃがみ込んだ。先に渡り切ってから結んだほうがいいのは分かっていたが、彼はあえてその場にわざわざしゃがんで、靴紐を結び直すことにした。
いつ死んでもいいと思っていた。
こんな下らない、無価値の世界で生きていても仕方ない。だからもし、今ここで自動車やバイクが突っ込んできて、事故に巻き込まれて死んでも別にいいって。むしろそのほうがいい。
昔……中学時代に、一度だけ本気で死のうとした。首吊りだ。親がいない間に、自室の天井にロープを引っかけ、死のうとした。
けど、死ねなかった。あまりの苦しさに、のたうち回った。運良く……いや、運悪く? ロープが千切れて、俺は助かった。助かってしまった。涙やら鼻水やら唾液やら、ありとあらゆる体液が顔中から出た。下からも……少し、漏らしてしまった。
怖かった。あんなに怖い思いをしたのは生まれて初めてだった。いつ思い出しても恐怖で震える。そのくらい苦しくて、恐ろしい出来事だった。
なのに……そんな体験をした後でさえ、「死にたい」「消えてしまいたい」という感情は失くならない。むしろあの時より強くなっている。時間が経てば立つほど、歳を取れば取るほど。一日ごと、一年ごとに強くなっている。
自分では死ねないのに、死にたい。
馬鹿だと思う。愚かだと思う。貧困、差別、戦争、殺人、性犯罪。そんなものが蔓延しているこの世の中。そんな下らない世界に生まれた下らない人間……なのに、自分で死ぬことさえ出来ないなんて。
俺は絶望していた。もう、誰でもいいから自分を殺して欲しかった。でも痛いのも苦しいのも嫌だ。だから、一瞬で。
常にそう思っていたから、……だから。
自分に向かって突っ込んでくるトラックに気がついたときには、すでに避けることのできない距離にいた。
……避ける? とんでもない。避けるなんてこと、この期に及んで絶対にしない。
こんな大きなトラックに轢かれたら、間違いなく死ねるだろう。頼むぞ、頼む。思いっきり、ぶつかってきてくれ。この全身を、俺という人間をぶっ壊して……とどめを、さしてほしい。
長かった、この18年。やっとこのクソみたいな世界から解放されるんだ。そう思って、俺は笑った。
……だが。
撥ねられたのは彼じゃなかった。
女だ。
彼と同じ高校の制服を着た、見覚えのある女子生徒。
ついさっき追い越したばかりの、あの……。
「いやああああああ!!」
「キャーーーッッ」
「救急車呼べっ!! 救急車!!」
「おい岸本!! 大丈夫か!?」
「彼方、あれって……俺らのクラスの、」
「……あいつ、今お前を突き飛ばしたように、見え……」
そう、つぶやいた友人の息をのむ気配を、すぐ側で感じた。
トラックにぶつかる直前、背中を強い力で押された感覚がしたのは、気のせいではなかったのだ。
なんで。
どうしてどうしてどうして。
……どうして?
そう聞きたくても、出来なかった。
女は血まみれで、体の関節がおかしな方向に曲がり、トラックに撥ねられたせいで、少し離れたところで力なく横たわっていた。
ひと目で意識はないと分かる……が、心臓が今も動いているのかどうかは、じっと凝視していても分からなかった。
ぐっ……と、彼の手に力が入り、拳を握る。
……馬鹿女。
余計なことしやがって。
岸本彼方は全身の血が沸き立つような感覚の波に呑まれながら、いつまでもその少女を見つめていた。
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