(──女は走っていた)
(満月の灯に照らされて、無我夢中で土を蹴る。遠くから聞こえてくる怒号はだんだん近づいているようだ。一瞬たりとも立ち止まる余裕はなく、爪の先がボロボロになり皮が剥けて血が滲んでも、女は歯を食いしばり、ひたすら走り続けていた)
(何故。そう考えるものの、理由はさっぱり分からない。けれども今やるべきことはハッキリしている。──逃げ延びなければ、きっと自分は殺されてしまう!)
(ようやく仕事が落ち着き、気分転換に旅行でもしようかと思いネットサーフィンをしていたら、期間限定の田舎ツアーを見つけた。ツアーサイトに掲載されている旅館はいかにも古く、周りには森が広がっている。美しい自然に美味しそうな料理の数々に心惹かれて料金を確認し申し込んだが、実際に来てみれば空気は綺麗に澄んでいて、温泉も気持ちよく、食事も美味しい。また来年も来ようかなと思いながら布団に入ろうとしたその時だった)
(──キン、と金属が擦れる音に、ハッとして静かに窓辺へ駆ける。そのままじっと耳をすませば、何人かの声が言い争っているのが聞こえてくる。……よく聞こえないが、そのうちの一人は自分を出迎えてくれた女将に違いなかった。あまりにも丁寧な対応に感動したので覚えていたのだ)
(ガチャリと鍵が回る音と共に、慌ててサンダルを引っ掛けて庭に出る。……なんだか様子がおかしい、逃げたほうが良さそうだ。そのままそーっと足を踏み出し低い垣根を乗り越えようとしたところで、「逃げられた!」と男が叫ぶ声が聞こえ、途端に村中に大きな鐘を打ち鳴らす音が響き始める。震えて竦みそうになる脚を叩き、訳もわからないまま、無我夢中で走り森へ入った)
(何故。何故。何故──。何度考えても分からない。ただ、殺意だけは感じ取れる。自分は何もしていない。そう胸を張って言える確信がある)
(泣きそうになるのを必死に堪えながらも、月を頼りに森を駆ける。荷物は何もかも置いてきてしまった。これでは家に帰るのも難しい。……捕まって殺されてしまえばそれこそ終わりだ。「贄が逃げた!」──そう叫んだ男の声を、この耳がしっかりと聞き取っていた。おそらく寝ている自分を生捕りにし、何らかの『生贄』にしようとしていた)
(じわり、と視界が滲む。ただ旅行に来ただけなのに。自分が何か悪いことをしただろうか?……殺されないと釣り合いの取れないような悪事を、人生で一度でも働いただろうか?)
(駆けて、駆けて、駆けて──ついに息が切れ、そのまま地面へとへたり込む。もう走れない。頭を土に擦り付けて唸る間にも、足音がどんどん近づいてくる)
(もう駄目だ。──そのまま気絶するように意識を飛ばしかけたその時、視界の端できらりと赤く光るナニカを見た、気がした)
(…………)