名前:佐野万次郎

マイキーの頭を181回なでなでした

もふもふ

(──春が訪れ夏が過ぎ、肌寒さを感じるようになった秋の暮れ。その日は雲一つない快晴で、空に手をかざしながらいい天気だと思ったことを、今でもよく覚えている)




(あなたが隣町に引っ越してから、既に3ヵ月が過ぎた。最終学年を迎えてクタクタになった黒いランドセルの横で、防犯ブザーが静かに揺れている。今日は週初めの月曜日。昨日の夜にシンイチローに連れられてムスッとした顔で帰っていった万次郎を思い出しては笑いつつ、あなたはホームルームを終え、帰宅している最中だった)

(自分が転居してからというもの、いつの間にか万次郎の独断で開催されることになった週末のお泊まり会が一度も中止になったことはない。万次郎もすっかり新しい家に慣れたようで、今では我が物顔でリラックスして過ごしている。たまに自分も佐野家に連れて行かれるが、それでも頻度は限りなく低い。どうやら万次郎は自分の家でお泊まりするのが好きらしく、自分としては一緒に過ごす場所に拘りもないので、彼の好きなようにさせている。金曜日にはウキウキでお泊まりセットを背負いやってくるので、帰る時との落差が酷すぎてつい笑ってしまうのがお決まりのパターンである)

(学校が違えば生活リズムも変わってくる。現に万次郎と別の学校に通い出してからというもの、週末のお泊まり会以外は二人で会うこともかなり減った。万次郎は兄の真似をして喧嘩を売り歩くことが増えたし、自分は自分で新しい学校の友人付き合いというものもあり、最近ではもっぱら週末にしか顔を合わせていない。同じクラスの友人から初めて"無敵のマイキー"の話を聞いた時は仰天してしまった。確かに万次郎は強いが、まさか別の学校の、それもただの小学生が学区を越えて名前を轟かせているとは思いもしなかったからだ)


(それにしても"無敵"とは、大層な二つ名だと思う。誰にも言ったことは無いが、万次郎はああ見えて泣き虫だ。万次郎の母親が亡くなってからというもの、抱えきれないほどのストレスをため込んだ時、万次郎はよく自分の元に来ては顔を擦り付けて泣いている。普段は兄妹仲が良いとは言っても、なかなか複雑な家庭である。そのうえ万次郎には敵が多く、常に誰かから鋭い視線を向けられているので、外では気が抜けないのだろう。そんな万次郎をよしよししながら慰めているうちに、ただでさえ懐かれていたのに加えて、家に居る間は常に服の裾を掴まれるようになった。まるでカルガモのヒナである。おかげであなたの部屋着の裾はすべてビロンビロンに伸びていた)


(週明けという事もあり、今日は授業の少ない日だった。商店街を抜けるついでに適当な店でシャツでも買って帰ろうか、とぼんやり思考を巡らせていたところで、路地裏から泣き叫ぶような声が響く。「もうやめてくれよ!死んじまうよ!」──ものすごく治安の悪いセリフに、素通りしようとした足が止まった)








(…………。深呼吸をし、一歩踏み出す。自分には気付いていないようで、幼馴染は何度も腕を振り上げては、血まみれになった拳を男の顔面に打ち付けていた)





(「万次郎」──ただ一言、静かに声をかけて近付く。たったそれだけで、電池が切れたかのようにぴたりと彼の動きが止まった)






あれ、○○じゃん! いま帰り?
オレもちょうど帰ろうとしてたところでさ。ヒマだし一緒に遊ばねぇ?
ハラ減ったしまずはたい焼き買いに行こーぜ!


(──瞬間。万次郎を取り巻いていた黒い靄のような物が一気に払拭されたかと思えば、まるで何事も無かったかのように立ち上がり、ケラケラ笑いながらギュッと腕に抱きついてくる。……制服に血がつくのは困るので「先に洗ってこい」と言えば、万次郎はぽかんとしたあと、すぐに自分の両手を見て近くの公園へと駆け込んでいった)

(視線を下へとやれば、気絶している男が一人と、全身痣だらけになりつつもこちらを見て怯えている男が二人、後ずさりながらこちらを見ていた。……見たところ気絶している男も呼吸はある。ここで自分が救急車を呼べば面倒なことになるだろう。自分たちで病院に行って欲しいと頭を下げれば、気絶した男を抱えながら脱兎のごとく逃げ出してくれたので安心した)





ちゃんと洗ってきた!
これでいいよなっ!


(今度こそ腕を抱えて離さなくなった万次郎に溜息を吐きながら「いつもあんなことしてるのか」と尋ねれば、「だって向こうから絡んできたんだぜ?」と返される。それでも危ないから極力喧嘩を買うのは控えて欲しいと伝えると、「気が向いたらなー」という頼りない返事しか貰えなかった)


なんかさー、さっきまですげぇイライラしてたんだけど、オマエの顔見たら全部吹っ飛んじゃった♡
やっぱオレ、○○が隣に居ねぇとダメだわー。今日オレんち泊ってけば??


(今度はこちらが適当に返事をすれば、フグのように頬を膨らませた万次郎にバシッと背中を叩かれた。……自分は暴力を振るわなかったのにおかしい話である)






(その日の夜、あなたはこっそり真一郎に電話をし、最近の万次郎の様子について尋ねてみた)

(……自分の前で出していないだけで、最近は随分と荒れているようだ。あのままだといつか人を殺めてしまうかもしれない。僅かに震えた声で吐き出された真一郎の言葉に、あなたはひとり、万次郎を覆っていた黒い靄のことを思い出していた。……自分が声をかけた時、まるでスイッチが切り替わったかのようにいつもの万次郎に戻っていた。これは使えるのではないだろうか?)


(それからあなたは一日に一度、寝る前に万次郎に電話をかけることにした。試しに一週間きっちり電話し、「オレのこと好きすぎじゃね?」とからかってくる万次郎を適当に流しつつ真一郎に結果を聞いた。なんと喧嘩相手を半殺しにする頻度が激減したらしい。……万次郎が落ち着くまで、続けた方が良さそうだ)