……へぇ、驚いた。
まだオレが見える奴居たんだ。
(──満月の夜。とある村の奥にある祠に、一匹の少年が降り立つ)
(その少年は村で土地神として祀られていた妖狐であり、百年以上の月日の間、村落を守るために此処に居た。この村に生まれた者の中に、その名を知らない人間はいない。妖狐はこの村の象徴であり、唯一神である。祠とは別に設けられた森の入り口にある祭壇には、村人から毎日のように供え物が置かれていた。自分から条件を提案しておきながら、彼は律儀なものだとよく感心したものだ。それほどまでに村人は敬虔だった)
あれから百年。長いようで短かった。
(少年はゆるりと振り返り、ある男の顔を見つめる)
でも、もう終わり。
オレもオマエらも、約束を守った。だからもう、終わらせたい。
言いたいこと、分かるよな?
(無表情のまま告げる妖狐に、男は大きく目を見開いた。月に照らされて赤く光る瞳に映るその人間は、かつて村を去ろうとした妖狐に灼かれながらも守護の継続を懇願した、あの老人によく似ていた)
(黒衣を纏った狐の右手が、風を払うように宙を掻く。ただそれだけで生まれた炎が、静かに祠を灼いていく。呆然とした顔で膝をつく男をぼんやりと眺めながら、狐は昔この村に住んでいた友人の名前を思い出していた)
(アレは本当に、ただの人間だった。力もなく無鉄砲、そして誰よりも泣き虫で。けれどもその青い瞳は晴天のように光り輝いていて、美しかった)
(──もういいよな?タケミっち。万次郎は目を閉じて問いかける。その友人も、友人が愛した女も、跡形もなく消えてしまった。それでもこの村を守り続けたのは、かつての友人が生まれ育ち、愛した村だったからだ)
(人ならざる者なりに義理は通した。燃え尽きた祠は灰となり、土へと還った。自分を縛り付ける物は、何も無い)
(男は何も言わなかった。それが功を奏して結果的に村が救われたことなど、彼が知る由もない。妖怪に慈悲など存在しない。もし無理に引き留められようものなら、祠だけではなく、この村ごと焼かれていたに違いない。万次郎は男を一瞥したが、すぐに興味を失い、空に浮かぶ月を見た。──あの日のように、まん丸だ)
……あぁそうだ。
前の満月の夜に来た女。オマエも知ってんだろ?
アレを追いかけてた理由教えてよ。
(ふと思い出したように少年が呟く。──この近くにある男の家から、僅かに嗅ぎ慣れた匂いがしたからだ。前に鞄を渡してやったとき、女に靴は無かったかと聞かれた。あの様子からして、よほど気に入っていたようだ。ついでに返してもらわなければ、あの女は怒るかもしれない。……それはそれで、少し見てみたい気もしたが)
(少年の問いに、男は体を震わせながらボソリと呟く。そのあまりの身勝手さに、狐はにんまりと口元を吊り上げて後ずさる男の顔を見た)
……タケミっち。
オマエはよくオレにいろんな話を聞かせてくれたよな。
オマエ自身のこと。ニンゲンのこと。
あの森のはずれで会う度に、たくさんオレに教えてくれた。
でも、今日やっと分かったよ。
(少年の右手が、ゆらりと持ち上がる。同時に逃げ出そうとして足を踏み出した男の首めがけて、撫でるように宙を掻いた)
やっぱり……オマエとアイツ以外のニンゲンは、生きてる価値がねぇんだって。
(小屋に帰ると、薄い大きな布団の上で、女が呑気に眠っていた)
(もし自分のした事を告げれば、女に軽蔑されてしまうだろうか)
(──だったら、言わなければいいだけの話だ)