「監督生さん。僕はあなたが頼ってくださるならいつでもこうして飛んできます。朝でも、昼でも、夜でも。いつでも連絡してください。待ってますから」
微笑んでそう言うジェイドは、しかし目の奥に何とも言えない悲しみのような色を揺らして監督生のことをじっと見下ろした。
お互いに理解している。監督生には既に恋人が居て、こんなふうに二人きりで過ごすなんて以ての外だと。
ジェイドは明らかに監督生に対して重苦しいほどの好意を抱いていたけれど、監督生は彼の気持ちに応えることはできない。応えてはならないと思っている。彼がいくら自分に好意を寄せてくれていても、越えてはいけない線がある。
監督生が何を言うべきかを考えていると、それよりも早くジェイドのほうが口を開いた。
「……ええ、ええ。わかっています。あなたに恋人がいらっしゃることは十分、理解していますよ。そして恋人の居る女性が他の男と二人きりで過ごすことが良くないということも、わかっています。いくらただの先輩後輩だと言い張ったって、疑わしいと思われてしまうでしょうね。もし仮に、僕があなたの恋人だったら穏やかでは居られないでしょうし」
はあ、と溜息をつくジェイドを見ていられなくて思わず俯く。
「……罪悪感がありますか? なら、全て僕のせいにすればいい。あなたは先輩に強引に誘われて、連れ出されて、怖くて断りきれなかっただけ。二人きりで過ごすのも、こんな距離で話すのも、全部僕が強いたこと。あなたは何も悪くない……そうでしょう? いいんですよ。僕をいいように使えばいいんです。僕、あなたになら都合のいい男にされても構いません」
ジェイドの声色は相変わらず優しいものだったが、どこか自虐的な色が滲んでいた。そんな声を聞いた監督生は困惑して、何も言えずに押し黙ってしまう。
それに気が付いたらしいジェイドは、いつもならすぐに笑みを作って「冗談ですよ」と言うのに、今日に限って、だからこそつらいのだと言わんばかりに視線を落としたままでいる。それがどうしようもなく胸を苦しめた。
何か、何かを言わなければと思うのに、言葉は喉元でぐるぐる回って出てきてくれない。何かを言いたいような、言って欲しいような、そんな気分になるのは初めてだった。
「すみません、困らせてしまいましたね。忘れてください」
ジェイドがそう言うと、監督生は何だか急に怖くなってしまって彼の服の裾を掴んだ。その瞬間、ジェイドは驚いて目を見開いて、それから少し顔を赤くしながら視線をうろうろとさせる。
「ああ、もう……参ったな……」
ごにょごにょと何かを呟いたかと思うと、今度は眉尻を下げて困り顔をする。いつもの、見せかけだけの困り顔じゃなかった。
「……これ以上ここに居るのは、良くないですね」
ジェイドはそう言いながらやっとのことで視線を監督生から離す。そして大きな手のひらでぐしぐしと自分の髪をかき上げながらそう言った。その表情はどこか緊張しているように見えた。
「このままここに居たら、無理矢理にでもあなたを僕のものにしたくなってしまいます。このまま二人で一晩過ごせば、絶対に歯止めが利かなくなってしまう」
ジェイドは言いながら再び視線を監督生のほうに戻すと、どこか潤んだ瞳で彼女を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。彼の色違いの瞳に見つめられるたびに監督生は身体の奥が熱くなるような感覚に襲われてしまう。互いの目を通して見えているジェイドも同じ感覚を味わっているのだろうか、と思えば思うほど言いようのない気分になって仕方がない。
「だから、……だから、あまり可愛いことをしないで。僕はこれ以上、あなたに嫌われたくない」
ジェイドは懸命に微笑んでみせると、その長い足を折り畳んで監督生の前に跪いた。そして、恐らくは信じてもいないだろうに神様に祈りを捧げるみたいにして、切なげな声を漏らす。
「……どうか、許してください。きっともう二度と、こんなことはしないと約束しますから。だから、今だけは。どうかお願いです。今だけはあなたを想うことを許してください」
監督生は居た堪れなくなって目を伏せた。自分を見つめるジェイドの顔があまりにもつらそうで、まるで今にも泣き出してしまいそうなほど苦しげだったから。
「……好き。好きです、あなたのことが……」
ジェイドは監督生の手を握ると、その手に額を寄せながら俯いた。その姿は懺悔をする罪人のようにも見えたし、何かを懇願する信徒のようにも見えた。
ジェイドが監督生の手に縋るようにして自分の想いを口にする。その手は小さく震えていて、普段の彼からは想像もつかないほど弱々しいものだった。そのあまりの弱々しさと必死さに、思わず息を呑んでしまう。
「──愛しています」
ジェイドはそう言ってから、彼女の手をぎゅうっと両手で包み込んだ。まるでこれが最後の愛を伝える手段だとでも言うようなその仕草に、胸が締め付けられる思いだった。
それは決して恋のときめきなどではなかった。もっと重たくて、苦しい、切なくて哀しい──そういう類の感情だ。
ジェイドは絞り出すような声でこう言った。
「……あなたに触れたい……あなたの全てが欲しい……あなたを誰の目にも触れさせたくない……僕を、僕だけを見て欲しい……」
ジェイドは縋るような目つきで監督生を見上げて、その手を指でそっとなぞる。彼の瞳には情欲と悲しみが入り混じって揺れていた。
「恋ってこんなに苦しいものなんですね……知らなかった。あなたはいつだって僕の知らないことを教えてくれる」
ジェイドはそう言って目を伏せると、吐息で小さく笑ってみせる。
その笑い声はいつものジェイド・リーチのそれとはまるで違う。迷子になった子供のように寂しげで、頼りなくて、それでいてどこか安堵しているようにも聞こえる不思議な声だった。
「…………ありがとうございます。これで、……大丈夫です、ええ、きっと」
ジェイドはゆっくりと息を吐き出して、ようやく監督生の手を解放したかと思うと、静かに立ち上がっていつもの笑みを繕う。しかしその表情はやはりどこか無理をしているようにも見えた。
「すみません。つまらない話を長々としてしまって。そろそろ帰ったほうがいいですね。……送って差し上げたいところですが、それは僕の役目じゃありませんから……その。お気を付けて」